第六章 天皇制と天皇

 

はじめに

  この章では一先ずわたしの直接的体験から離れて、天皇制についての理論的問題を取り上げてみたい。なぜかと言うと天皇制と天皇の関係については、わたしの中に今だにどうしてももやもやしてすっきりしない何かが存在しているからである。もちろんそれは天皇の戦争責任の問題である。戦争犯罪人を裁く東京裁判においても、天皇は遂に訴追されることがなく、天皇には戦争責任なしということで済んでしまった。それも政治的・法的責任がないと言うだけでなく、精神的・道義的責任も問われなかった。わたしの疑問というのは、まず政治的・法的責任がないと言うのはどういう根拠に基づくのかという点と、精神的・道義的責任もないというのはなぜなのかという点である。また自分の発した詔勅によってあれだけの戦争をやっておいて、責任を感じないで生きていられる人間というのは、いったいどういう人間なのかという素朴な疑問もある。これはどうしてもわたしとしては見過ごすことのできない重大な問題だ。わたしは戦後の日本の歩いて来た道を振り返ってみて、この天皇無責任論というものが、戦後の日本の社会に暗い影を投げ掛けて来たのだと直感しているのである。だから天皇制とわたしとの関係についてここまで書いて来た以上、この直感を理論的に解明することは、わたしにはどうしても避けて通ることができない。

 そこでわたしがすぐ思い出すのは終戦の詔勅というものだ。これはわたしの脳裏に焼き付いていて、終戦から五十年近い歳月が経った今でも、尚心の中でどうにもならないどろどろしたものを淀ませて、わたしを悩ませ続けている。そこでこの終戦の詔勅というものをもう一度見なおすところから考えを展開してみたい。それはこういう文章なのである。

 

終戦の詔勅

 

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セント欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ

 朕帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 抑ゝ帝国臣民ノ康寧ヲ図リ萬邦共栄ノ楽ヲ ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カザル所ナリ 先ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出デ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ略スル如キハ固リ朕ガ志ニアラズ 然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕ガ陸海将兵ノ勇戦朕ガ百僚有司ノ精励朕ガ一億衆庶ノ奉公各々最善を尽クセルニ拘ラズ戦局必ズシモ好転セズ世界ノ大勢亦我ニ利アラズ 加之敵ハ斯ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シ被害ノ及ブ所真ニ測ルベカラザルニ至ル 而モ尚交戦ヲ継続センカ終ニ我ガ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラズ延テ人類ノ文明ヲ破却スベシ 斯ノ如クンバ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝センヤ 是朕ガ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至リシ所以ナリ 朕帝国トトモニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ 帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉ジ非命ニ斃レタル者及ソノ遺族ニ想イヲ致セバ五内為ニ裂ク 且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失イタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レドモ朕ハ時運ノ赴ク所堪エ難キヲ堪エ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信綺シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失ウカ如キハ朕最モ之ヲ戒シム 宣シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信ジ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義を篤クシ志操ヲクシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レザラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕ガ意ヲ体セヨ

  御 名 御 璽

    昭和二十年八月十四日

                           各 国 務 大 臣 副 署

 

 これは昭和ニ十年八月十五日の正午、天皇が発した終戦の詔勅というものである。今の人はこの文を読んでもほとんど意味がわからないだろうから、面倒でも一応翻訳してみることにしよう。

 

 「わたしは深く世界の大勢とわが国の現状を考えて、非常措置によって時局を収拾しようと思い、ここに忠良なるお前たち臣民に告げる。わたしは帝国政府に命じて米英中ソの四カ国に対して彼らの共同宣言を受諾することを通告させた。そもそも帝国臣民が安らかな生活ができるように取り計らい、全ての国とともに栄える楽しみを共有することは、天皇家の先祖以来の教えであり、わたしが常に心掛けて来たところである。考えてみると米英二国に宣戦を布告したのも、わが国の存続と東アジアの安全を願ったからである。他国の主権を侵したり領土を侵略する考え気もちろんわたしにはなかった。それなのに戦争はすでに四年も続いており、わたしの陸海将兵が奮戦し、わたしの役人たちが仕事に精励し、わたしの一億の臣民が最善を尽くして奉公したにもかかわらず、戦局は好転したとは言えず、世界の大勢もわが国にとって不利でる。その上敵が残虐な爆弾を使ったため、その被害は計り知れない状況に立ち至った。この上なお戦争を続ければ、遂にわが民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明を破壊することになるだろう。そういうことになったらわたしはどうやって一億の国民を保ち、天皇家の代々のご先祖さまに罪を詫びたらいいのだろうか。

 これがわたしが帝国政府に共同宣言に応ずるよう命令した理由である。わたしは帝国と共に終始東アジアの解放に協力してきた同盟国に対して、遺憾の意を表さないわけにはいかない。帝国の臣民で戦場で戦死したり、職場で殉職したもののや、その遺族のことを考えると、五体が千切れる思いである。また戦傷を負ったり、戦災に遇って家業を失ったものの今後のことを思うとと深く心が痛む。考えてみるとこれから帝国に降りかかってくる苦難はもちろん並大抵のものではないだろう。お前たち臣民の真心もわたしにはよくわかっている。しかしながらわたしは時世の流れにしたがって、耐え難いことにも耐え、我慢できないことも我慢して、それによって国の将来に平和な世界を開きたいと思っている。

 わたしは今国体を守ることができて、忠良なお前たち臣民の赤誠を信じ頼りにしているし、いつでもお前たち臣民と共にいる。もし万一激情の赴くままに行動してやたらに事を構え、同胞がお互いに争って時局を難しくし、大道を踏み外して世界に対して信義を失うようなことになることを、わたしは一番戒めたいと思っている。どうか挙国一致、家族揃って固くわが神の国の不滅を信じ、責任は重く道は遠いことを考えて総力を挙げて将来に向っての建設に尽くし、道徳を高揚し、強固な意志を持ってわが国体の素晴らしいところを発揚するように誓い、世界の発展に後れないようにすることを心に期せよ。お前たち臣民はわたしの心を十分に理解してもらいたい。

 

 だいたいこういう意味である。この文章を読んであなたはどう思うだろうか。戦争が終って五十年近くが経ち、今はもう戦争を知らない若い人たちが大半の世の中になってしまった。しかし当時の政府の発表によってもわが国の被害総額は、昭和ニ十年価格で六百五十三億ニ百万円、戦没者百五十五万五千三百八人、一般国民死者ニ十九万九千四百八十五人、空襲罹災都市百十三ヵ所、罹災総人口九百六十四万七百七十一人となっている。この数字は敗戦直後の混乱した状況の中で発表されたものだから、とても正確なものとは言えず、実際にはこの何倍もの被害だったに違いない。他国の蒙った被害まで考えると、この戦争によって日本国民とその他の国の人民の受けた被害は、気が遠くなりそうな膨大かつ深刻なものであったことが容易に想像されるだろう。そういう空恐ろしい戦争の開始を宣言した天皇は、この詔勅の中でその戦争について何と言っているだろうか。彼はこう言っているのだ。

 「米英ニ国に宣戦を布告したのも、わが国の存続と東アジアの安全を願ったからで、他国の主権を侵したり領土を侵略する考えはもちろんわたしにはなかった」

 これだけである。たったこれだけである。しかしあれほどの侵略戦争をやっておいて、「他国の主権を侵したり領土を侵略する考えはもちろんわたしにはなかった」などとどうして言えるのだろうか。これがもしあなただったら平然としてこんなことが言えますか。ここには戦争を起こした人間の責任感もなければ、被害を蒙った人々への痛みも謝罪も一切認められない。まるで自衛のための正当な戦争であったと胸を張って言っているような趣さえある。いったい人間としてこんなことが許されるのだろうか。そこがわたしにはわからない。わたしは責任ということを言ったが、この場合の責任には二つの面がある。それはもちろん政治的責任と道義的責任であって、この二つはそれぞれ別々に検討される必要がある。なぜならそうしないと話がごちゃごちゃになって問題の本質を曖昧にしてしまう恐れがあるからである。実は天皇の政治的責任と道義的責任をどう裁くかという問題は、戦争の末期において戦勝国となるはずの米国においても、戦敗国となるはずの日本国内でも同時に検討されていた問題であった。

 

@アメリカの政策としての天皇制護持

 

 一九三ニ年から一九四ニ年の十年間米国の日本駐在大使を勤めたジョセフ・グルーは、帰国後一九四四年の五月国務省の極東局長となり、十一月には国務次官となって、日本の戦後処理に関するアメリカの政策作成の中心人物となった。したがって戦後の天皇と天皇制の問題の処理にについて、グルーが果たした役割は非常に大きいものがあったと言っていいだろう。

 グルーはアメリカきっての日本通であり、駐日大使在任当時天皇を取り巻くいわゆる宮廷グループとも親交があった。牧野伸顕、近衛文麿、松平恒雄、広田弘毅、樺山愛輔、吉田茂、弊原喜重郎、重光葵などである。これに海軍将官、大実業家などを加えて穏健派と呼ばれる一連の人たちと親密な関係を保っていた。だからグルーの天皇及び天皇制に対する意見はこの人々との接触を通じて形成されたものであって、そのためにある心情的なバイヤスがかかり、必ずしも客観的であるとは言い難い。グルーは一九三四年二月八日の日記に、「この国における最高勢力は平和的である。天皇は穏やかな、平和を好む性格の人である」と書いているが、彼はもちろん非常にしばしば直接的天皇に謁見する機会を持っていたわけではなく、天皇の資質を的確に理解するチャンスには恵まれていなかった。だから天皇に関する彼の見解は天皇側近グループからの影響によるものであって、彼の天皇側近グループに対する信頼感が、そのまま天皇への信頼感にすり替えられているのであろうと思われる。しかも私的な日記であるために心理的バイヤスがかかった心情がそのまま吐露されてしまっているのではあるまいか。

 また《サンフランシスコ・ニューズ》のジョン・S・パイパーあての一九四三年十一月三十日付けの手紙では「日本滞在中わたしは親密かつ信頼すべき筋から、日本の天皇は心から平和を希い、平和を維持するためにできるかぎりのことをしたという話を聞いております。彼は軍国主義的極端主義者に説き伏せられ、開戦の詔勅に署名したにすぎません。なかば神とみなされている天皇が、単なる象徴以上の何ものでもなく、かつ軍国主義者に抵抗できないほど無力だというのは、まさに日本の奇妙なパラドックスの一つです」と書いているが、ここにも同じような客観的事実に対する心情的なバイヤスを見ることができる。第一他人からの伝聞を事実として、「彼は軍国主義者に説き伏せられ、開戦の詔勅に署名したにすぎません」などと天皇の責任を曖昧にするような重大な発言をしているのは、とてもグルーのような理論家のすることとは信じられない。これはそういう心情的バイヤスの明白な証拠だと断定してもいいのではないか。

 こうしてグルーは天皇及び天皇側近の彼のいわゆる穏健派グループに絶大な信頼を寄せていたが、日本の軍国主義に対

しては憎悪とさえ言えるほどの強烈な批判を持っていた。彼は日本から帰国した直後の演説「東京報告」において次のように述べている。

「日本の教育精神は、すべて軍人の命令に対する絶対服従を基礎としている。日本にとって平和の数年は戦争準備のそれであり、日本の子供は幼児から戦争のために育てられ、彼らの最大の幸福は戦場において死ぬことであ[1]驍ニいうふうに教育されている。ついでに天皇崇拝についても、日本国民が挙国一致で国軍を支持しこの戦争に参加しているのは、それが天皇の意志であると宣言されているからにほかならない。日本では天皇の意に背くなどということは想像だにできない。天皇に不忠とはとりも直さず自分の祖先を辱めることで、祖先崇拝すなわち神道と呼ばれる愛国的信仰が全国民の根本的信仰となっている」

 したがって「日本の軍隊組織、軍閥専制、武断制度、その威信、その覇権は根本的に破壊されねばならないし、将来二度と再びかかる脅威の起る余地を残してはならない」と述べているのは、単に日本の軍閥の破壊だけでなくそのような軍閥を成立させた日本の政治・社会構造の全体を解体し改造することを含んでいたと言っていいだろう。このことは彼の一九四三年八月二十八日の演説によってもはっきりしている。彼はこの演説によってもはっきりしている。彼はこの演説でこう言っている。

「日本が再び国際平和の脅威にならないようにするためには、日本の武装解除、戦争賠償、戦争犯罪人の処罰、軍国主義り教義の永久除去、日本人の再教育が必要である」と。

 ところがそれにもかかわらず。彼は戦後の日本の処理に当たっては天皇制は残すべきだと考えたのである。それはなぜだろうか。彼は日本人の天皇信仰がこの上もなく強固でありこの事実を無視しての占領政策はきわめて危険だという認識を持っていた。だから彼はこう言っているのだ。

 「天皇を公然と攻撃すれば、日本国民をわれわれに対する憎悪でこり固まらせるだけであろう。・・・・(中略)・・・将来何が起ころうとも天皇制は残すベきだと言うのがわたしの固い信念である。・・・(中略)・・・それは日本人の生活の礎石であり、最後の頼みである限り、われわれが日本から軍国主義を追放した暁には、健全な政治構造を打ち樹てる時の土台として利用できるものである」

 彼の考えはこうであった。

 日本人は神格化された天皇に対する強烈な信仰に生きており、軍閥がこれを利用して天皇の名において国民を戦争に引きずり込んだのである。だから日本を降伏させるについても天皇を利用することが最も経済的であり、もし武力による徹底的なダメージだけに頼ろうとすれば、膨大なアメリカ人の血が流されることになるだろう」

 また「日本降伏後も占領支配を安定したものにするためには、日本側の文民の協力を取り付けることが必要になろう。そのような協力を得るにさいしては、天皇の権威を利用した方が百倍も千倍もその効果は保証されよう。天皇の是認なくしては、およそ所期の協力と文民側のリーダーシップが確実に得られるかどうかきわめて疑わしい」

 しかし「ヒロヒト自身について言えば彼がいかにしてその地位にとどまれるか、わたしには予測ができない。失敗に対する責任を引き受けることが日本の伝統であるという事実にかんがみてみれば、なおさらそうだ。普通の失敗なら閣僚あるいは他の官僚が退任するかハラキリによって、天皇の双肩から責任をとり除くこともできよう。しかし、日本が不可避的に直面する政治的大変動のことを考えると、ヒロヒトがその責任を免れることができるかどうかは予測することができない。なぜならば彼が戦争を望んだと否とにかかわらず、天皇は開戦の詔書に署名したのだ。しかしながらヒロヒトは象徴に過ぎず、むしろ問題になるのは天皇制なのだから、いずれにしてもわたしはこのことが大きな問題になるとは思わない」

 こうしてグルーは天皇と天皇制とをはっきり分けて考えており、ヒロヒト天皇の退位もあり得るという考え方持っていた。天皇の退位が避けられない場合は、秩父宮か皇太子が天皇になって、戦後の新しい日本のリーダーになればよいと考えていたようである。彼は一九四三年の帰国直後の書簡の中でこう言っている。

 「天皇制に関して言えば、現在の天皇個人と明白に区別されるべきものだが、それは保持されるべきであるとわたしの心中ははっきりしている。なぜなら象徴として、天皇制はかつて軍国主義崇拝に役立ったと同様に、健全かつ平和的内部成長にとっての礎石として役立つからである」

 天皇制が軍国主義に役に立ったのとどうよう平和にも役立つという考え方には非常に問題がある。これは天皇制という制度の根本にかかわる本質的な問題であって、この点に関してグルーの認識の仕方はきわめて粗雑であり、理論的ではなく心情的である。

 アメリカの中枢にも「天皇制存置・利用論は結局、利用したつもりの天皇制によって軍国主義復活の余地を残し、ひいては日本における民主主義の発展を遅らせる結果を招く」という見解が強く存在していた。

 また一九四四年五月グルーが極東局長に就任し、彼の《滞日十年》が出版された直後、ニューディール派の雑誌「アラメシア」は長文のグルー批判を展開し、次のように述べている。

 「グルー氏は日本の天皇制、神道、穏健派に信頼をよせるという危険な神話を信じている。彼は日本に滞在中緊密に接触していた宮廷グループや外務官僚など著名人については多くを語っているが、戦争に反対した重要な勢力である、より人民的基礎を持つ大衆運動についてはまったく分析せず何も語っていない。

 またグルー氏は最も狂信的な軍国主義者と同じように、大企業や金融閥(皇室も含む)をして東アジア全体を支配しようとする野望を抱かせるに至った日本の社会構造、経済構造についてもなんらの分析を行なっていない。グルー氏は穏健派をあまりにも信用したために、四十一年十月十六日、近衛内閣が瓦解し東条内閣が成立した時にも、近衛の次のような言葉を道理ある説明と受け入れてしまった。「陸軍の支持を受ける勢力を持つ首相を相手にしたならば、日米会談はもっと早く進行したであろう」。この記述に加えてグルー氏は四十一年十月二十日の日記にこう書いている。「東条将軍は陸軍内の現役階級を掌握しているから、部内の極端分子に対して従来以上に統制を及ぼす立場にあると期待することは不合理ではない」と。

 今振り返って見ると、グルーの天皇制存置・利用論に対するこれらの批判は、天皇制の本質に関する理論的にきわめて正しい指摘であったことがわかるが、結果的にはこの批判が採用されずにグルーの意見が通ってしまったのはなぜだったのだろうか。

 またグルーでさえ天皇の道義的責任をはっきりと認めていたのに、戦後の天皇がその政治的責任を問われなかったばかりか、道義的責任まで免れてしまったのはなぜだろうか。グルーは先にも書いたとおり日本が敗色濃厚になった一九四四年十一月国務次官に任命された。当時病身のルーズベルト大統領を補佐するための戦時内閣のような、国務・陸軍・海軍三長官による三人委員会と、その下部機関として極東小委員会が設置された。この委員会の主要な役割は米国政府の対日政策を起草することにあった。グルーはここに知日派の部下ニ人を送り込み、強力な布陣を張って対日戦後政策の策定に当ったのである。

 一九四五年二月十九日硫黄島の日本軍守備隊二万三千人が玉砕した。四月一日米軍は沖縄本島ら上陸を開始した。三月十日には東京が大空襲を受け大被害が発生した。五月七日ナチス・ドイツが連合軍に無条件降伏した。グルーは一日も早く日本の無条件降伏を引き出さねばならないと焦った。

 しかしグルーの天皇制存置・利用論は国務省の内部においてアチソンやマクレイシュの二人の次官候補の猛烈な反対に出会い、彼の大統領声明による日本への降伏勧告の計画は失敗に終った。ルーズベルト死去の後を受けて大統領になったトルーマンが、グルーの計画に関心を示しながらそれを取り上げなかったのは、ポツダムにおける三大国首脳会談が迫っていたことと、日本に対する原爆の投下計画が秘密裏に着々と進行していたからであった。こうしてグルーが考えていた天皇制保持を認めることにより日本の早期降伏を誘導するという構想は、大きな軍事戦略(とくに原爆投下)との関連で棚上げとなり、結局米国の戦争終決戦略はグルーの手を離れて、原爆計画を手に握っていたスチムソン陸軍長官に委ねられることになった。だからポツダム宣言の原稿はグルーが書いたのではなくスチムソンの手になるものなのである。しかしスチムソンは天皇制についてはグルーと完全に意見を同じくしており、グルーは一九四五年十月十八日付の海軍少将J・F・シャフロス当ての手紙で、「日本を降伏に導く上で役に立ったポツダム宣言の作成にイニシアティブがとれた」と高らかに述べており、「とくにスチムソンとフォレスル(海軍長官)とわたしは時々この問題(天皇制の問題)について語り合い三人は完全な意見の一致をみていた」とも言っている。スチムソンの起草した、ポツダム宣言のもとになった共同声明案の該当個所にはこう書かれている。

 十二、われわれの諸目的が達成せられ、かつ日本国国民を代表する平和的傾向を有し、責任ある政府が確実に樹立された時は、連合国の占領軍はただちに日本国より撤収されるものとする。このような政府は、再び侵略を意図せざることを世界が完全に納得するに至った場合には、現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする。

 これは明らかに天皇制の存続を承認したものであって、スチムソンとグルーが天皇制について完全に同意見であったことを証明している。グルーが自分がポツダム宣言の作成にイニシアティブを取ったと言っているのはいささか言い過ぎであろうが、彼がスチムソンに強い影響力を発揮していたことは容易に想像できる。結局この草案はポツダムにおける首脳会談で次のように変更された。

 十二、前記諸目的(占領)が達成され、かつ日本国国民の自由に表明せる意志に従い平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立せらるるに於いては、連合国の占領軍はただちに日本国より撤収せらるべし。

 こうして「現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする」という文言は、元来中国派で日本派のグルーと対立していたバーンズ新国務長官や軍部の強硬な反対によって削除されたのである。このポツダム宣言は七月ニ十六日に全世界に向けて発表された。しかし日本政府はこれに対して鈴木貫太郎首相の「黙殺」談話をもって応えた。こうして八月六日の広島への原爆投下となり、八月八日ソ連の参戦、八月九日の長崎への原爆投下という悲劇が展開することになった。八月十日日本政府はついにポツダム宣言を、「天皇の国家統治の大権に変更を加えるいかなる要求をも包摂していないという了解のもとに受諾す」という申し入れを行なうに至った。これに対してスチムソンは日本政府の申し入れの線に沿って回答を行なうよう強く主張したが、トルーマンとバーンズは天皇制保持を認めればアメリカ国民の激しい反発を受けるであろうことを恐れて、明確な言質を与えることに反対した。

一九四五年夏のギャラップの夜論調査によれば、アメリカ国民の七割以上が日本国天皇を処刑ないし終身禁固にせよと苛酷な処遇を要求していたと言う。そこで回答文はポツダム宣言の言い回しの線に沿ったものとし、世論の反発を避ける方法が取られたのである。その重要部分は次の通りである。

 「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従属する」 

「日本国の最終的政治形態は《ポツダム宣言》に従い、日本国民の自由に表明する意志により決定されるべきである」

 つまりこれはもし日本国民が望めば占領後において天皇制は残り得るということをそれとなく暗示したのである。そのことは日本政府にも敏感に察知されたので、日本側は八月十四日の御前会議で最終的に《ポツダム宣言》の受諾を決定し、八月十五日の先に上げた天皇の詔勅となったのである。だから詔勅の文面にも「朕ハ国体ヲ護持シ得テ」という言葉が堂々と使われているのであって、天皇と日本政府は天皇制の存続に完全に自信をもったものと思われる。天皇が戦後戦勝国によって道義的責任も政治的責任も一切問われることがなかったのは、この《ポツダム》宣言の主権に関する付帯的叙述によって、天皇制の存続が法的な保証を得たからである。この瞬間戦争犯罪人に対する国際裁判の対象から、天皇だけは完全に外されてしまったのであり、天皇の道義的・政治的責任を追求するとすれば、それは占領が終った時点での日本国民の意志に任されたのである。これがアメリカ国民の七割以上の世論をも無視して天皇免責を保証した法的根拠であった。

 グルーは日本の降伏と同時にトルーマン大統領に辞表を提出した。グルーの日本駐在中からの意志は貫徹され、天皇制は護持された。グルーがアメリカの政治家として自らの命運を賭けて天皇制の護持に奮闘し、さまざまな困難を冒して遂にその目的を達成した、その情熱はいったい何処から生れて来たのであろうか。もちろん彼の建前は天皇制利用論であった。戦争が起る前にはグルーは天皇制を利用して平和の維持に努力したのであるが、一旦戦争が勃発して帰国した後国務省の極東局長ないしは国務次官となってからは、一貫して早期の戦争終決に天皇制を利用しようと試みた。それは戦争によって失われるアメリカ人の命と膨大な戦費の経済にとって、もっとも効率のよい方法としてグルーによって主張された。また日本の戦後処理問題をもっとも効率的に処理する方法としても、天皇制の利用が主張された。天皇制を残すことによって戦後の混乱を避け、日本民主化のための占領行政を効率的に行なうことが可能だとグルーは主張した。グルーの主張は戦中から戦後にかけての現実を表面的に見る限り完全に正しかった。終戦の天皇の詔勅は日本軍の速やかな武装解除を保証したし、社会的な混乱も押さえることができた。日本人は上下を問わず占領政策に協力的であったし、政治犯の釈放、思想警察の解体、内相・特高警察全員の罷免、統制法規の廃止、婦人解放、労働組合の奨励、教育・司法・経済の民主化などの施策も何の妨害もなく実施された。だからこれらの事実に限って言えばグルーは完全に正しかったことになる。 

 しかし果たして本当にそうだったのだろうか。それはこの後戦後の天皇制がどうなって行ったかを分析する中で検証されるであろう。ただわたししがここで感ずることは、このグルーの情熱が決して彼の建前だけから生れたものではなく、彼の滞日十年の間に育まれた日本の穏健派グループへの親近感、それを通じての日本人に対する親近感に由来していたということであり、その親近感を支える天皇及び天皇制に対する認識には非常に大きな誤解と誤謬が存在していたということである。

 彼のいわゆる穏健派グループなるものは、その体質において専制的神権政治を信奉する封建的な保守派たちであって、本質的には軍部の侵略主義的拡張派となんら変わるところはなかったのである。グルーがそういう種類の人間に最も親近感を持ち、一方日本の進歩的学者や文化人や一般市民の層にまったく関心を示さなかったのは、結局彼の体質が日本の穏健派グループと本質的に同じであったからだと考えられる。グルーはもともとボストン上流階級の出身であり、アメリカの富裕な名門家庭の子弟が通うグロトン校に進学し、ハーバート大学を卒業した。したがって彼の天皇制利用論の裏側には、彼自身の出自から来る日本の穏健派グループへの心情的親近感が大きく働いていたと言うのが本音であろう。そこに彼の天皇と天皇制に対する浅薄な理解が発生する根元があったとわたしは思うのである。

 わたしはここでもう一度昭和十六年十二月八日の開戦の詔勅というものを振り返ってみたい。なぜならアメリカの占領政策によって道義的にも政治的にも無罪とされた天皇が、この詔勅の中で何をどう言っていたかを、ここで再度確認しておく必要を強く感ずるからである。この詔勅は今でもわたしの心に灼きついていて、その全文を暗記しており口に出して唱えることができるくらいである。それはこうだ。

 

開戦の詔勅

 

祚 天祐ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝臣民ニ示ス 朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス 朕ガ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕ガ百僚有司ハ励精職務ニ奉公シ朕ガ衆庶ハ各々ソノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラム事ヲ期セヨ 抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕ガ拳々措カザル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国ガ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ 今ヤ不幸ニシテ米英両国ト戦端ヲ開クニ至ル洵ニ己ムヲ得ザルモノアリ  朕ガ志ナランヤ 中華民国政府先ニ帝国ノ真意ヲ解セズ濫ニ事ヲ構エテ東亜ノ平和ヲ撹乱シ遂に帝国ヲシテ干戈ヲ取ルニ至ラシメ已ニ四年有余ヲ経タリ 幸ニ国民政府更新スルアリ 帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ビ相提携スルラ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ書牆ニ相鬩クヲ悛メズ 米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇の非望ヲ逞ウセムトス 剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国の平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与え遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ 朕ハ政府をシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニリタルモ彼ハ毫も交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ッテ益々経済上軍事上の脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメントス 斯ノ如キニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年の努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危胎ニ瀕セリ 事既ニ此ニ至ル 帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為決然立ッテ一切ノ障害を破砕スルノ外ナキナリ

 皇祖皇ノ神霊上ニ在リ 朕ハ爾有衆ノ忠誠勇武ニ信 シ祖宗ノ遺業ヲ 弘シ速ニ禍根ヲ 除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セム事ヲ期ス

    御 名 御 璽

      昭和十六年十二月八日           各 国 務 大 臣 副 署

 

これを現代語で直せば次のようになる。

 神霊の加護を受けて、万世一系の皇位を受け継いでいる大日本帝国の天皇であるわたしは、はっきりと忠誠勇武なお前たち臣民に告げる。

 わたしは今ここに米国と英国に対して宣戦を布告する。わたしの陸海将兵は全力を奮って戦争に従事し、わたしの役人たちは職務に精励して奉公の実を尽くし、わたしの臣民たちは一億一心となって戦争の目的を達成するのに後悔が残らないように励んでほしい。そもそも東アジアの安定を確保して世界平和に貢献することは偉大な明治天皇、その後継者の大正天皇がお作りになった深い計りごとであって、わたしが常に心掛けているところであり、そして列国との交際を大切にし、すべての国と共に繁栄を享受することは、わが国が常に他国との交際における重要なこととしてきたところである。今不幸にして米英両国と戦端をひらくことになったについては誠に止むを得ないものがあったのである。どうしてこれがわたしの志に根ざすものであろうか。

 蒋介石の中華民国政府は先にわが国の真意を理解せず、徒に事を構えて東アジアの平和を撹乱し遂にわが国が武力の行使をせざるを得ないように仕向けてから、もう既に四年以上もの年月が流れた。幸いに王兆銘の新しい国民政府が生れたので、わが国は相互に善隣関係を結び互いに提携することとなったが、蒋介石の政権は米英の後押しを受けて、国内で同胞が互いに殺し合う愚を止めようとしない。米英両国は蒋介石政権を支援して東アジアの騒乱を煽り立て、平和の美名に隠れて東洋制覇の野望を実現しようとしている。その上に仲間の国を誘ってわが国の周辺で武備を増強し、わが国に戦いをけし掛け、更にわが国の平和的通商にあらゆる妨害を加え、遂には経済断交を敢えてし、わが国の生存に重大な脅威を与えて来ている。わたしは政府に命じて事態の平和的解決求めて、長い間隠忍に努めて来たが、相手はまったく譲ろうという気持ちがなく、徒に問題の解決を遅らせて、その間に却って益々経済上・軍事上の脅威を増大し、それによってわが国を屈伏させようとしている。こんな状況を放っておいては東アジアのためのわが国の長年の努力はすべて水泡となってしまい、わが国の存立さえ正に危機に瀕している。事態はもはやここまで来てしまった。わが国は今や自存自衛のため決然として立ち上がり、一切の障害を打破する他に道はないのである。

 先祖の神々の神霊は天上にあって見ていてくださる。わたしはお前たち臣民の忠誠勇武を信じ頼って先祖の神々遺業を回復させ、速やかに禍根を取り払って東アジアの永遠の平和を確立し、わが国の栄光を保つことを期待する。

   御 名 御 璽

     昭和十六年十二月ハ日                  各国務大臣副署

 

 今この詔勅を読むと「朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク」と言っているが、単に一方的な理屈を言っているだけで、日米交渉において日本がどんな譲歩をし、何を米国に求めたのか、具体的なことは何も述べていない。もちろんこういう種類の文書はそういう言い方になるのが当然の事かもしれないが、結局国民は一切何も知らされないままあの暴虐極まりない戦争に引きずり込まれて行ったのであった。この詔勅を読むかぎり、天皇に責任がないなどと言う議論は完全に論外であって、こんな文書に署名しておいて責任がないなどと言うのであれば、世界に犯罪などというものは成立しなくなってしまう。天皇に道義的責任はもちろん政治的責任があるという見解は、当時世界的に見て常識であったし、一九四五年九月十八日の米上院では、「日本国天皇ヒロヒトを戦争犯罪人として裁判に付すること」が決議されているのである。また一九四六年一月にはオーストラリアは天皇ヒロヒトほか六十一名の戦争指導者を主要戦争犯罪人として告発する準備に入っていた。既に極東委員会(その構成国は米・英・ソ・中の四大国のほか仏・オランダ・カナダ・ニュージーランド・インド・フィリピンの計十一ヵ国)は日本の新しい憲法の問題に介入しようとしていた。マッカーサー司令部としては機先を制して早急に憲法草案を作成する必要に迫られていた。なぜならば憲法は天皇と天皇制について法的根拠を与えるものであり、それによってのみやっとのことでポツダム宣言に盛り込んだ天皇制護持の政策が現実化するからであり、G・H・Qはこれに失敗すると占領政策が根本的に崩壊してしまうという認識に立っていたからである。

 この時マッカーサーは米参謀総長アイゼンハワーに対して長文の機密電報を打電した。その中で注目すべきは次の文章である。

 「もしも天皇を裁判に付そうというのであれば、占領計画に大きな変更をくわえなければならず、したがって実際に裁判を開始するに先立って、しかるべき準備を完了しておかなければならない。天皇を告発するならば、日本国民の間に必ずや大騒乱を引き起こし、その影響はどれほど過大視してもしすぎることはないであろう。天皇は日本国民統合の象徴であり、天皇を排除するならば日本は瓦解するであろう」

「占領軍の大幅増強は絶対不可欠となり、最小限に見ても百万の軍隊が必要になり、無期限にこれを維持しなければならないであろう。それにとどまらず、行政官を全面的に補充し、呼び寄せなければならないかもしれず、その規模はおそらく数十万に達するであろう」

 マッカーサーは共和党穏健派のグループに属しており、天皇制に関する意見ははグルーと基本的に同じであった。こうしてマッカーサーは憲法草案の作成を急ぎ、それは日本側との折衝を経て一九四六年十一月三日に公布された。実に戦争終決から一年二ヵ月という驚くばかりの早業であった。とにかく新憲法は公布され形式的にではあるが天皇と天皇制は護持されたのであった。それは戦後の日本にとって何を意味しただろうか。

 

A日本保守グループによる天皇制護持

 

 今まで述べたようにアメリカは早期に日本の降伏を勝ちとリ、また日本占領を早期に完結させるために天皇制の護持にあらゆる手段を講じたのであるが、日本国内においては天皇制の護持はそれ自体が目的であり、この点については天皇を廻る宮廷グループだけでなく、東条のような主戦論者に至るまで実に一枚岩的な結束を見せたのである。彼らの間で亀裂が生じたのは天皇制と言う制度の問題ではなく、現天皇ヒロヒト個人の道義的な戦争責任問題であった。この点に関しては権力の内部においてさえ重大な意見の相違があったのである。この対立は戦後急激に発生したものではなく、満州事変以来の長い時間に亙る国策上の対立に根ざしていたと言うことができる。それは宮廷グループのグルーのいわゆる穏健派と陸軍を中心とする侵略主義的急進派との対立であった。宮廷穏健派グループの中心は近衛文麿であり、侵略主義的急進派の中心は最終的に開戦時の首相東条秀樹に収斂されて行った。近衛文麿は太平洋戦争に対する限り非戦派の代表選手ではあったが、それ以前の一九三一年の柳条湖事件に端を発した満州事変、三七年の蘆溝橋事件を契機に全面戦争になった日中戦争については、三七年の第一次近衛内閣、四十年の第二次内閣、四十一年の第三次内閣の首班として、近衛自身の考えとは別に内閣首班として完全に責任があった。しかし近衛にはこの点についてまったく責任の認識がなかったため、戦後G・H・Qからの戦争責任について訴追されると、只々驚愕し自殺の道を取ることになったのである。つまり近衛は自ら非戦派、平和主義者を以って任じており、対米英関係を悪化させる可能性のある軍事的冒険主義政策に対しては確かに抑止的態度を取ったけれど、日本をアジアにおける盟主の位置に置き、大日本帝国のアジアにおける権益の維持・拡大のためには軍事力の行使も辞さないと考える点では、軍部の強硬派とも共通する面を持ち、同じ帝国意識の持ち主であった。彼は四十年九月の北部仏印進駐のような軍部の冒険主義的な南進政策によって、米英との間に軍事的緊張が高まると、一応アメリカとの妥協の道を探る日米交渉に乗り出し、その中でアメリカの主張する中国大陸からの日本軍の撤兵という要求を受け入れることによって、対米戦争を回避しようとする。しかし陸軍を代表する東条秀樹陸相の強硬な反対に出会うと簡単に政権を放棄してしまい、東条秀樹の急進派に道を開く事を許してしまったのである。近衛のこのような弱腰は彼が本質的には軍事的冒険主義者と同質であり、ただ中国とは違いアメリカとの戦争の見通しにおいて軍部と違った見通しを持っていたと言うだけあった。

 だがこんな近衛の姿勢と比較しても、天皇ははるかに軍部寄りの姿勢を取っていた。天皇は近衛が投げ出した後政権を担当した東条秀樹を信任し、その内閣を強く支持した。こうして天皇と近衛の間には溝が生まれ、それは解消するどころか宿命的な対立に発展して行ったのである。近衛はこの時から表舞台から姿を消し、四十五年二月戦争終決について上奏するまでの三年四ヵ月天皇への拝謁を許されなかったのである。

 戦局は四十二年のミッドウェー海戦の大敗北を境に、米国の強力な反撃の前に敗退の一途をたどり、四十三年二月のガダルカナル撤退、同年五月のアッツ島玉砕、四十四年六月のサイパン島玉砕、同年八月テニヤン・グァム島の玉砕と続き、急速に敗色は濃厚になって行った。日本国内でも次第に反東条・早期和平の動きが現われるが、その中心になったのは近衛であった。彼の周辺には岡田啓介・米内光政などの海軍系の重臣グループ、陸軍内の反主流派グループ、重臣の牧野伸顕の女婿の吉田茂や鳩山一郎などが連絡を取り合いながら作戦を練りはじめた。サイパン島の陥落によって日本本土がB29の行動圏内に入った四十四年六月になると、彼らは東条内閣打倒工作に乗り出しついに七月東条内閣を総辞職に追い込むことに成功した。

 四十五年に入って戦局はますます絶望的な段階を迎えた。近衛は本格的な終戦工作に乗り出し、同年一月ニ十五日京都の宇多野の別荘にある陽明文庫に重臣の岡田啓介、海軍大臣の米内光政、天皇家とゆかりの深い仁和寺の門跡岡本慈航(じこう)の三人を招き、敗戦後の事態について協議した。この場で天皇の退位と落飾(らくしょく)(出家)が話し合われ、仁和寺の側からは「落飾した天皇を裕仁(ゆうにん)法皇と申し上げ門跡として金堂にお住みいただく計画」が示されたと言う。退位した天皇の幽閉計画である。ここでは近衛は戦争に対する天皇の道義的責任は当然のこととし、天皇の退位を具体的に構想していたのであり、それは近衛だけの意見ではなく近衛を取り巻く重臣たちも同じであった。 

棋四十五年二月平沼棋一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東条秀樹、以上七人の重臣がおのおの天皇に拝謁して、戦局に対する見通しを上奏した。しかしこの中で明確な政治的方向性をもって天皇に上奏したのは近衛だけだったと言う。近衛は「敗戦は遺憾ながらもはや必至と存じ候」として敗戦をはっきり予言し、敗戦にともなって「共産革命」が発生し、天皇制が崩壊する最悪の事態を回避するために、ただちに戦争の終決に踏み切ることを主張した。これに対して天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか難しいと思う」と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示したと言う。しかし戦局はとてもそんな悠長なことを言っていられる段階ではなく、その月の内に硫黄島が玉砕し二万三千人の守備隊が全滅した。三月九日B29が東京を夜間大空襲し下町一帯が焼失し、死傷者十二万人を出した。また十四日には大阪が空襲され十三万戸が焼失した。四月一日米軍が沖縄本島に上陸を開始した。戦局打開の見通しを失った小磯内閣が総辞職し、代って天皇の信任篤い鈴木貫太郎海軍大将が内閣を組織するが、五月七日ドイツが連合国に無条件降伏し、六月二十三日沖縄守備隊全滅、戦死者九万人、一般人の死者十万人、もはや日本の敗戦は必至の情勢となった。ここに至って天皇もようやく戦争終結の方向に踏み出すことを決意した。御前会議が開かれ、ソ連に終戦斡旋を依頼することになったがソ連はこれを拒否した。

七月二十六日日本の無条件降伏を求める米・英・中三国による対日共同宣言(ポツダム宣言)が発表された。その内容は日本政府に対して、軍国主義勢力の除去、連合国軍による保障占領、殖民地、占領地の放棄、軍の武装解除、戦争犯罪人の処罰、国民の間の民主主義傾向の復活・強化などの厳しい要求を突きつけたものであった。日本政府は当初この宣言を「黙殺」するという態度を取ったが、八月六日には広島に、続いて九日には長崎に原子爆弾が投下され、更に八日にはソ連が日ソ中立条約を無視して日本に宣戦を布告し、直ちに赤軍が満州に侵攻するなど、日本の破局はもはや時間の問題となった。ここにおいて権力の内部では、「国体護持」だけを条件にしてただちにポツダム宣言を受け入れるべきだとする和平派と、それに加えて自主的武装解除、日本側による戦争犯罪人の処罰、保障占領は行わないという四条件を主張する軍閥たちとが鋭く対立し、中々結論に至らなかったが、ついに八月九日り御前会議で天皇の「聖断」という形で一条件付受諾が決定したのである。

日本の権力がポツダム宣言を受諾するに至った最大の原因が末期的な戦局にあったことはもちろんであるが、その他に国内的にはこれ以上戦争を続けることが困難な要因が存在していたことを見落とすことはできない。それは国民生活の窮乏化と破壊、戦局に対する絶望感によって、国民の間に軍部や政府の施策に対する反感が急速に広がっていたことである。それだけでなく天皇に対する国民の批判もかなり深刻な形で隠然と高まりつつあった。内務省警保局の内部文書には、不敬言動として、「敗戦必至の前提として陛下のご将来に不吉な憶測をなすもの」、「敗戦後の戦争の責任は当然陛下が負い奉るべきなりとするもの」、「戦局悪化の責任を畏くも陛下の無能力にあるとなし奉るもの」、「戦争の惨禍を国民に与えたるものは陛下なりとして、これを呪詛し奉るもの」、「陛下は戦争圏外に遊惰安逸の生活をなしおるとして、これを怨嗟し奉るもの」などの記載があると言う。また近衛によれば七月十二日の拝謁の際、「今や皇室をお恨み申し上げる事態とさえなっております」と申し上げたところ、天

 一九四五年九月ニ日アメリカ戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書の調印式が行なわれた。これによって連合軍による日本占領が開始された。この時アメリカ政府の対日政策は天皇制を存置させる点についてまだ流動的であった。なぜなら連合国の世論はアメリカ国内の世論を含めて、天皇制に対して厳しい見方をしており、日本の侵略政策の基盤を天皇制そのものの中に見い出すのが、むしろ一般的な理解であった。それにもかかわらず、アメリカ政府が天皇制存置による間接統治の方式に踏み切ったのは、日本の降伏が数ヵ月早まったため、十分な軍政要員を確保することができなかったこと、天皇の命令によって日本軍の武装解除が迅速に行なわれたのを見て、天皇の権威を再認識したこと、アメリカ国内の世論を配慮して、占領コストの節約を意図したこと、などの理由によるのだと言う。

 アメリカ政府は「天皇制は支持しないが利用する」という政策を採用したのだが、このあたりにわれわれには理解しにくい、非常にプラグマティックなアメリカ式思考を見ることができる。これは日本の侵略政策を天皇制そのものの中に見ていた、世界の世論を完全に無視した考え方であるが、その結果は後にはっきりした現実となって現われて来る。但し戦後間もなく米ソの対立が深まり、冷戦の時代に突入したため、むしろアメリカが日本の再軍備を促すよう政策を取ったため、この問題が曖昧にされてしまったのである。しかし天皇制の存置が日本の戦後の歩みの中でどんな機能を果たし、戦後史にどんな影響を与えて行ったかはしっかり跡付けておく必要がある。

 日本の保守勢力は最初戦争責任を追求する内外の世論に対処するための統一的な方向を見いだすことができなかった。

 終戦の直後に内閣を組織したのは皇族の東久迩宮稔彦首相は、八月ニ十八日の最初の記者会見で、「国体護持ということは理屈や感情を超越したわれわれの信仰である」と言明し、さらに「ことここに至ったのはもちろん政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義がすたれたのもこの原因の一つである。この際わたしは軍・官・民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」(朝日新聞四十五年八月三十日付け)と述べた。しかし指導者の責任を棚上げした一億総懺悔論は、もはや国民に対する説得力を持ちえなかった。例えば愛媛県では東久迩宮演説に対して、「われわれは戦勝のためあらゆる無理を我慢してきたが、国力の真相を知って指導者の欺瞞政策であったことがわかりました」、「最後まで国民を騙して来た指導者は万死にあたいする」、「従来の指導当局は国民が総懺悔する前に、自ら責任を負うべきだ」などの声が上がっていたと報告されている。だから国民総懺悔論はもはや指導者の責任を誤魔化すための煙幕としては用をなさなかった。当の東久迩宮も会見の席上外国人記者に天皇の責任を追求されてしどろもどろになり、G・H・Qの特高警察廃止指令に大きな衝撃を受けて脆くも総辞職してしまった。東久迩宮に代表される日本の保守派はまだ現実の厳しい姿をありのまま認識することができなかったのである。

 この後を受けて登場した幤原内閣の目標も国民生活の再建ではなくて、天皇および天皇制護持の論理の確立であった。その第一弾として「戦争責任に関する件」が閣議決定された。その内容は次のとおりである。

 

1、大東亜戦争(太平洋戦争)は帝国が四囲の情勢に鑑み止むを得ざるに出でたるものと信じおること

2、天皇陛下におかせられては、あくまで対米交渉を平和裡に妥結せしめられんことを御念あらせられたること

3、天皇陛下におかせられては開戦の決定、作戦計画の遂行等に関しては憲法運用上確立せられおる慣例に従わせられ、大本営、政府の決定したる事項を却下遊ばされざりしこと

4、日米交渉継続中に攻撃を加うることを避けんがため、日米交渉打ち切りの通告の通達方努力せること

 

この閣議決定の中に示されている論理、つまり天皇は立憲君主であるから、内閣や陸海軍が一致して決定した事項に対し

てはたとえ異論があってもそれに従うことを原則としていたという論理は、天皇の戦争責任を否定する場合の中核的論理

になっているが、これには非常に問題がある。しかしそれは後でしっかりと検討することにしたい。

 またこの閣議決定が言っている戦争責任とは対米開戦についての戦争責任だけを意味しており、宣戦の詔勅が降ってからの戦争中の戦争責任や、宣戦の詔勅が発っせられないままの満州事変や日中戦争への責任の問題は、視野の外に置かれていた。しかし国際世論は日本の戦争責任についてはるかに厳しい評価をしており、日本の保守派と国際世論の間には大きな溝が横たわっていたのである。

 いずれにせよこの閣議決定は日本の保守派が必死になって天皇及び天皇制を守ろうとしている姿を示しているが、一読すると東久迩宮同様まだ現実がほとんど見えていない状況がありありと窺える内容となっている。

 当時東久迩宮・幣原・吉田茂など保守の主流派は、米ソの対立が深まる中で共産主義勢力に対抗するため、アメリカは日本に対して宥和政策に出るものと考え、天皇制の護持については比較的楽観的であった。これに対して近衛を中心とするグループは、敗戦によって国体は危機に瀕しており、これを乗り切るには天皇制自体の思い切った改革が必要で、明治憲法の改正と天皇の退位が必要であると主張したのである。近衛はこの問題のため精力的に活動し、四十五年十月四日にマッカーサーと会見した際、「軍閥と極端なる国家主義者が世界の平和を破り、日本を今日の破局に陥れたことについては一点の疑いもない」と述べて軍部の戦争責任を明確にし、これに対して「皇室を中心とする封建勢力と財閥は常に軍閥勢力の向上を抑制するブレーキの役割を果たしたのであって、日本の赤化を防止し建設的なデモクラシー国家を作り上げるためには、軍閥的勢力の排除だけではなく、皇室を中心とした勢力と財閥の温存が必要である」と力説したと言う。

 近衛はこの会見でマッカーサーから憲法改正問題を政治的にリードするよう示唆を与えられ、早速新憲法草案の作成に取りかかった。

 近衛は外国記者との会見において「天皇御退位に関する規定は現行の皇室典範には含まれていない。憲法改正に当る専門家は近く改正皇室典範に退位手続きに関する条項を挿入する可能性を検討することになろう」と述べ天皇退位の可能性を示唆した。近衛の閣外におけるこういう行動は幣原首相を痛く刺激したばかりでなく、天皇その人の神経を逆撫でする結果にもなった。また近衛はアメリカ政府の駐日政治顧問マックス・ビショップに対しても、天皇の決断があれば日米開戦は阻止できたと言外に匂わせるような発言をして、天皇の戦争責任に触れている。天皇と近衛の関係はもはや決定的な状況に陥っていた。

 ところが近衛はその十一月アメリカ戦略爆撃調査団の尋問を受けることになった。この尋問において近衛は予期に反して日中戦争について当時の首相としての政治責任を厳しく追求された。またG・H・Qの内部では対敵情報部調査分析課長で、日本近代史の専門家で知られるE・H・ノーマンが、日本のファシズム化の過程で近衛が果たした重要な役割を強調した覚え書きを、十一月五日付けでG・H・Qの政治顧問G・アチソンに提出していた。

 この結果近衛は戦犯容疑者のリストに加えられ、十二月六日についに近衛に対する逮捕状が発せられた。近衛は巣鴨拘置所への出頭予定日の十六日未明自宅で服毒自殺した。近衛はアメリカ側は対米開戦責任だけを追求して来るものと予想し、太平洋戦争に反対の立場をとった自分が追求されることはないと判断していたのである。この非常に甘い政治的判断からすると近衛もまた敗戦という現実が少しも見えていなかったとしか言いようがない。

 近衛の取り上げた天皇の戦争責任問題はG・H・Qにとっても大問題であった。その経緯については先にマッカーサーの極秘電報のところで取り上げてあるのでご承知のとおりである。G・H・Qにとっては天皇退位問題を回避するため、今までの神格化された天皇と国民の間の壁を取り払って、民主化された天皇のイメージを浸透させることが必要であった。そこから生れたのが天皇の人間宣言である。だから驚くべきことにこの原案を書いたのはG・H・QのCIE顧問ハロルド・ヘンダーソンであった。

 一九四六年一月一日に発表されたこの詔書は何故か明治維新に際して発せられた「五ヵ条の御誓文」を冒頭に掲げたかなり長文のものであるが、この詔書の言いたかったことはわずか数行のフレーズに過ぎない。あまり長文なので全文を引用することをやめ、必要箇所だけを取り出すと次のようである。

 

 然レドモ朕ハ爾国民ト共ニ在リ。常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分カタント欲ス。朕ト爾ラ国民トノ紐帯ハ終始相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依りリテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテヒイテハ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念に基クモノニ非ズ。

 

 これによると天皇と国民はいつでもお互いの信頼と敬愛によって結ばれており、天皇は現人神、つまり人間にして神であるというのは架空の観念であり、天皇は神ではなく人間であると言うのである。

 天皇は神であり、天皇のためならいつでも命令のままに命を投げ出さなくてはならないと言われていたのが、いきなりお前とおれとは互いに信頼と敬愛で結ばれているなんて言われても、国民はただ呆然とするばかりで何が何だかわからないだろう。もちろんこれは天皇のお言葉ではなく、G・H・Qのお言葉なのだが、一般国民は天皇のお言葉だとばかり思っていた。しかしこれが公式に天皇の言葉だということになると、国民としてはいささか納得が行かない。頭から国民に対し「戦争をやれ!」「戦争をやめろ!」と命令して来た人が、今度は「おれとお前は信頼と敬愛で結ばれている」なんて冗談じゃないと思うばかりだ。少なくともわたしは昭和天皇を人間として信頼していなかったし、もちろん敬愛なんかしていなかった。わたしからすればいきなり信頼と敬愛を押し付けるなんてとんでもない厚かましさだと思うばかりだ。こいつは簡単に信用できない。眉に唾をつけてかからないと何時また騙されるかわからない。こう思うのが人情と言うものだろう。しかしこの人情は実は少しも間違っていなかったのである。戦後五十年の天皇制の歴史がそれを証明しているからだ。天皇は今でも表面はニコポンでやっているが、天皇制の中身は一歩づつ一歩づつ昔の天皇制に逆戻りしつつある。この人間天皇の宣言は、くしくも昔の天皇制復活のための、仮面劇の第一歩であったのである。

 さて人間天皇の宣言についで天皇は何をしたか。四十六年二月戦後初めての神奈川県・東京都の巡幸、三月群馬県・埼玉県を巡幸、六月千葉県・静岡県巡幸、十月愛知県・岐阜県巡幸、十一月茨城県巡幸と、たった十ヵ月の間に九つもの県を訪問しているのはたいへんなエネルギーである。これは戦争の被害を受けた国民への見舞いというか戦争被害の視察という形で行なわれたが、この巡幸は各地で国民の熱狂的な歓迎を受け、この後も四十七年には十八府県と非常に精力的に各地を巡行している。行く先々の県では順路の清掃・整備に大わらわになったため「天皇は箒である」とさえ言われた。また天皇の言葉の「あ、そー」が流行語になったりして、この二年に亙って全国的に行なわれた人間天皇キャンペーンは大成功であった。

 天皇が華々しく全国各地を巡行している時、かつて天皇の側近として内大臣を勤めた木戸幸一は、近衛などと違って第一の天皇派であったが、極東裁判の審問調書の中で次のように述べていたのである。

 「今度の敗戦については何としても陛下に御責任があることなれば、ポツダム宣言を御履行になりたる時、換言すれば講和条約が成立した時、皇祖皇宗に対し、また国民に対し責任をおとり遊ばされ、御退位遊ばさるるが至当なりと思う。・・・これによりて戦没、戦傷者の遺族、未帰還者、戦犯者の家族は何か報いられたるがごとく慰めを感じ、皇室を中心としての国家団結に資することはすこぶる大なるべしと思わる。もしかくのごとくせざれば、皇室だけが責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを恐れる」

 そして人間天皇として華々しい地方巡行を繰り返している天皇の姿が、木戸には戦争責任の自覚に欠けたものと映ったのだろう。彼は戦犯仲間の安倍源基に「陛下は少し行幸が多すぎる。少し謹慎されなければならぬ」と洩らしたと言う。戦時中最も東条よりだった木戸にしてこの言があるのだ。こういうところに人間天皇の人間性を見るのはあながち誤りとはいい得まい。

 しかし天皇の人間性がどうであれ、木戸の心配はまったくの杞憂に終った。天皇はこのキャムペーンによって政治的責任ばかりか道義的責任まで軽くクリアしてしまったのである。

 

B憲法と天皇制

 憲法の制定の経過は先に述べた通りであるが、四十四年十一月ついに新憲法が公布され天皇制は公式に法的根拠を得て存続することになった。しかし天皇制が根本的に性格を変えたことはもちろんである。

 

日本国憲法

 

第一章 天   皇

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 

 ここでは先ず象徴という言葉の意味が問題である。象徴というのは目に見える形を持たないもの、つまり抽象的・観念的なものを連想させる具体的なものということである。

 つまり平和の象徴がハトだと言うように、天皇とは「日本国」とか「日本国民の統合」という抽象的なものを連想させる具体物だというのである。法的にはただそれだけの意味で、それ以外の文学的意味付けや哲学的意味付けはまったく無用であるばかりでなく誤りであり有害である。これは基本的な点であるから特に強調しておきたい。だから天皇を尊重しなければならないとか、敬愛しなければならないとか、決してそういうふうに読んではならないのである。天皇は天皇という地位に任命された一人の公務員であって、普通の人間とまったく同じ人間であり、だから税金も取られるし刑事的責任も問われる。これははっきり認識しておく必要がある。

 次に注意したいのは「国民統合の象徴」という言葉の意味である。これを国民を統合する象徴というふうに読んではいけない。そうではなくて統合されている国民の象徴という意味なのである。だから「天皇によって国民の精神的一体性が確保される」とか、「天皇はいわば扇の要のようなもので、なければ日本国民がばらばらになる」というように理解して、天皇が存在しなければ国民の統合もなく、したがって「日本国民にとって天皇は不可欠な存在であるから、天皇陛下と皇室がなくなると、国民の荒廃が全部表に噴出して日本はほろびる」というように、天皇を特別の、日本人にとって宿命的な存在として捉えてはいけないのである。天皇によって日本国民を統合しようと言う考え方は、昔の神権的天皇制への復帰を連想させ極めて危険である。

 次に新憲法における天皇の権能は、第四条の規定によって、「この憲法が定める国事に関する行為のみを行ない、国政に関する権能を有しない」ということになっている。これは第六条と第七条に厳密に規定されている。

 

 第六条 天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する。

     天皇は、内閣の指名に基づいて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

 第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行なう。

 一、憲法改正、法律・政令及び条約を公布すること。

 ニ、国会を召集すること。

 三、衆議院を解散すること。

 四、国会議員の総選挙の施行を公示すること。

 五、国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

 六、大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。

 七、栄典を授与すると。

 八、批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。

 九、外国の大使及び公使接受すること。

 十、儀式を行なうこと。

 

 天皇として許されている国事行為とは第六条と第七条に規定されたこの十ニ項目だけである。だから天皇はこれ以外の行為は公式に天皇としてはやってはいけないのであって、もしそれをやろうとするなら、完全に私的行為としてやらなければならないのである。これは非常に重要な点であるからぜひ記憶に残しておいていただきたい。つまり憲法は天皇の政治的完全無能力を定めているのである。

 さらに天皇はこのような形式的・儀礼的国事行為を行なうについても、すべて内閣の助言と承認が必要であり(憲法三条、七条)、天皇が積極的にイニシアティヴを取ることも許されていない。だから天皇が内閣の助言も承認もなしで公的行為を行なった場合は、天皇は責任を問われることになる。

 ここから出て来るもう一つの点は「天皇は君臨もしなければ統治もしない存在」のだと言うことである。最近ややもすると「天皇を日本国の象徴として上にいただいている」とか「われわれは天皇を象徴としていただいているのであるから、その天皇の代をことほぐのは当然だ」などと言うことが言われるが、天皇は一種の公務員として国民全体に対する奉仕者なのであり、だからこれは明らかに間違いであって非常に危険な考え方である。

 天皇は国民の上に存在するのではなくて、憲法の論理から言えば、国民・国会・内閣・天皇と言う順序がもっとも適合的だと思われる。この天皇の憲法上の位置についての誤解ないしは歪曲は、知らず知らずの間に昔の天皇のイメージを復活させ定着させる恐れがあるから特に注意を要する。

 戦後五十年の歳月が過ぎ去り、その間に天皇制もずいぶんと変容を遂げて来た。それは敗戦直後の天皇制の危機の時代、人間天皇へのイメージ・チェンジの時代、新しい天皇像の確立と定着の時代、そして安保以後の権威的天皇像の再建に向かう時代と言うふうに分けることができるであろう。しかし今は現在進行している権威的天皇像の再建と憲法との関係だけを取り上げてみたい。

 

 敗戦直後天皇が全国各地を巡行して「天皇は箒である」と言われたことがあったが、あの天皇の名による巡行はそもそも憲法違反であった。なぜなら天皇の名による巡行は憲法が天皇に許している国事行為には入っていないからである。だから先にも指摘したとおりあの巡行は人間天皇のイメージづくりのためのキャンペーンではあったが、思えば憲法に違反する天皇の公的行為の第一歩であって、そういう既成事実の積み重ねによって現在も引き続き権威的天皇像の再建が進められていることを思えば、あれがその原点であったと言うことができる。

 ところで天皇制に関して安保以後の時代を象徴する事件は、その前年の皇太子の結婚の時に起った。皇太子夫妻が乗っているパレードの馬車に一人の青年が石を投げつけたのである。この状況は全国の茶の間にテレビで報じられたが、天皇制護持論者は非常なショックを受け、さらにこの青年の行為に共感を持ったたくさんの青年がいたことに強い危機感を持つに至った。

 彼らは「ミッチー・ブーム」などと言うマスコミの扱い方によって、天皇と皇室がスター化して行くことを苦々しく思い、天皇制を確固たるものにするためには、天皇にある種の権威性を持たせ、国民との間に一定の距離を置くことで、国民との異質性を強調することが必要だ考えた。そこに起ったのが六十一年二月の嶋中事件である。六十年末中央公論に掲載された深沢七郎の《風流夢譚》では、天皇と皇后、それに皇太子夫妻までが処刑されるという話になっており、これに憤檄した暴漢たちが嶋中社長宅に押し入り、お手伝いさんたち二人を殺傷したのである。このテロ事件は言論界に衝撃を与え、その結果被害者であるはずの中央公論社の社長が謝罪したり、同社発行の《思想の科学》を廃棄・停刊したりした。これは暴力による言論の自由に対する攻撃に言論界が屈したことをしめしており、言論界に「天皇タブー」が生れることになった。

 マスメディアは既に五十三年皇太子が、英国のエリザベス二世の戴冠式に天皇の名代で出席した時、皇太子の言動を詳細に伝え、第一次皇室ブームを演出していたが、五十八年十一月の皇太子結婚では「ミッチー・ブーム」という第二次皇室ブームを巻き起こして、天皇の権威化に積極的に追従するようになって行った。

 また現代の日本の支配層である大資本の経営者たちも天皇の権威化を推進した。一九四六年日経連専務理事の前田(はじめ)は、日本では古来より犠牲的精神と殉忠精神が天皇を中心に培われてており、日本民族は国民の象徴としての天皇を中心として、国民のよりどころをこの一点に集めている姿は、外国にも類例のない民族の姿である。この中に経済が繁栄し企業が営まれる道があると述べている。彼は労働者の企業に対する犠牲的精神・殉忠精神の中核に天皇を利用しようとしたのである。つまり彼は天皇に権威を持って国民を統合してもらえばいいと考えたのである。これは天皇に昔のような権力を持たせようと言うのではなく、権威を天皇に持たせて、それを利用して実質的な権力は自分たちの手に握ろうという考えであった。ことに八十年代になると自民党を中心とする改憲派は、天皇が国を代表する元首であることを、済し崩しに実現しようと努力し、天皇に憲法に規定されていない数多くの公的行為を行なわせている。

 例えば、天皇は外国や日本に慶事や不幸があった場合に外国元首と親電や親書を交換しているし、皇后とともに一九七○年代に二度も外国の公式訪問を行なっている。また皇太子をエリザベス二世の戴冠式に名代として参列させている。一方外国から元首が訪日した場合、晩餐会などを開催して元首を接待・歓迎しているが、憲法によれば天皇にこういうことをする権限はない。国会や国民体育大会の開会式に出席してお言葉ヲ朗読するのも、植樹祭に出席してお手植えをするのも、八月一五日の全国戦没者追悼式でお言葉を読んだり、国内で開かれる万博やオリンピックに出席するのも、憲法で許されていない公的行為である。各界で活躍している人々を招待して、春秋に行なわれる園遊会も公的行為であるし、天皇誕生日や正月慣例の一般参賀、さして国内巡行も公的行為だ。だから天皇はこういうたくさんの違憲行為によって、自らの権威化への道を一歩一歩踏みしめているのである。このように天皇の数々の違憲行為が日常茶飯事に行なわれ、国民の誰一人も不審に思わない状況が刻々と進行しているのは、非常に危険な兆候である。

 しかしながらこれらのことは国民の目に見えるところで、見える形で行なわれているからまだよいのであるが、国民の目に触れにくいところで行なわれている天皇の行為には、よほど注意してかからなければならない。

 例えば一九五二年頃から国事行為に関連して参内した閣僚が、所感事項を一般的に説明するのが慣例になっており、その他海外に出張したり帰国したりした場合には首相や外相が、国会終了後には衆参議院議長が、選挙終了後には自治大臣が、年末には都知事や警視総監が、年始には自衛隊幹部が、重大事件発生時には所轄大臣が、それぞれ天皇に報告することが行なわれていると言うが、こういう場合昭和天皇は自分の意見を言ったり、指示に類するようなことまで言って、国政に口を出している事例がいくらでも見られる。

 そのいい例が一九七三年五月末の「増原防衛庁長官の内奏問題」である。

 五月二十六日駐スーダン大使等の認証式に侍立した増原防衛庁長官は、その機会を利用して裕人天皇に「当面の防衛問題」について約四十分間報告したが、この時天皇は、「自衛隊は近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えないのに、国会でなぜ問題になっているのか」と政治的内容を含む質問をした後、「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことはまねせず、いいところを取り入れてしっかりやってほしいと」と述べたと言う。(五月二十七日付け朝日新聞)

 そもそも天皇に対して国政について報告することなどと言うことは、法的に見てまったく不必要なばかりか、天皇に対する謝った認識に基づくものであることは明らかである。こういうところから天皇の政治への介入を許すことになったら憲法上由々しき問題だ。現に裕人天皇は「旧軍の悪いところはまねせず、いいところを取り入れてしっかりやってへほしい」などと言うきわめて危険な思想を、憲法に許されていないにもかかわらず平気で発言をしているが、もしこれが日本の防衛問題になんらかの影響を与えたとしたら、憲法は有名無実になってしまう。

 最近は日本の経済力が驚異的な進歩をとげ、日本企業が輸出や対外進出を活発に行なったため、アメリカ・ECなどの先進資本主義国との間に経済摩擦や貿易摩擦が生じ、第三世界とも利害衝突が生み出されることになった。特に後者の点では第三世界の混乱から進出企業を守ったり、石油等の日本への輸送ルートを防衛したりするため、そして最近には国際協力の名のもとに、自衛隊の海外派遣が行なわれるようになりつつあり、そこでの武力行使の恐れも杞憂ではなくなりつつある。こういうことを考えると、天皇制の問題はすべての国民がマスメディアだけに頼らず、自分自身の目で頭でしっかりした判断を持って対処しないと、再び神権的・侵略的天皇制を呼びさましてしまうことになるのではないかと危惧せざるを得ないのである。

 

 この章は次の三冊の本のノートを取るような形で、わたしが自分の考えにしたがって取り纏めたものである。だから文章をそのまま引用したところも多く、著作権に触れるかもしれないが、わたしには印刷して販売するつもりは毛頭ないので、私的な覚え書きとして読んで頂けばいいのではないかと思っている。著者の方々に心からお礼を申し上げたい。

 

 ○昭和天皇の終戦史     吉田   裕    岩波新書

 ○象徴天皇制への道     中村  正則    岩波新書

 ○憲法と天皇制       横田  耕一    岩波新書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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