
1、定家の生涯
1、青春時代とその社会的背景
定家は応保二年(一一六二年)俊成四十八才の子として生まれた。五才にして従五位下に叙せられ六才の時紀伊守に任ぜられた。十四才、赤斑 にかかり重体に陥ったが一命をとりとめた。この年父俊成が右京大夫を辞しその代りに定家が侍従に任ぜられた。
安元三年(一一七六年)定家十五才の折父俊成は重病を患い、これを機に出家し釈阿と称した。俊成六十三才であった。このため定家の宮廷における出世は初めからあまり希望の持てないものになつてしまっている。この時期は平家の全盛期で、その翌年には鹿ケ谷事件が起こり、後鳥羽法皇の勢力は大きな打撃をこうむった。定家は十六才であったが、 にかかり再び死線をただよっている。彼は八十才の長寿を保ったが、これ以後は常に病気がちで病弱な体質だった。彼の厖大な日記《明月記》には咳病、発熱、食欲不振、痢病、心神不例などの記事が非常に多い。
治承四年(一一八○年)頼朝が伊豆に挙兵、義仲は木曽に挙兵し、清盛は福原(今の神戸)に遷都を強行した。平維盛の大軍は富士川の合戦に戦わずして総崩れとなり、大敗を喫して京に逃げ帰った。平家の衰退はこのあたりから急速に進行し始める。この年平重衡が南都を焼き討ちし大仏殿が炎上するという事件が起こった。定家の《明月記》はこの年から書き始められているが、こういう物情騒然たる政治的・軍事的状況の中で維盛の東国下向の噂を聞きながら次のように書いている。
〈世上乱逆追討耳に満つといえどもこれを注せず。紅旗征戎わがことにあらず〉
つまり源平の争いなど公卿には何の関係もない。公卿は公卿で自分たちの世界はまったく別の世界だと言うわけだ。こういうところに公卿の端くれである定家の恐るべき特権階級意識と社会的無関心と政治的無知が何の疑いもなく披瀝されている。公卿社会というものはこういうものであり、政権を巡る騒乱の中で人民が塗炭の苦しみに喘いでいるにもかかわらず、多くの歌合せや歌会が行なわれ、公卿は昔ながらの慣習にしたがってまったく別個の世界で別個の生活を続けようとしていたのであった。《明月記》には同じ月に次のような記事もある。
〈十五日、甲子、夜に入り明月蒼然。故郷寂として車馬の声を聞かず。歩み従容として六条院のあたりに遊ぶ。夜漸く半ばならんと欲す。天中に光る物あり。その勢い、鞠の程か、その色燃ゆるが如し。忽然として躍るが如く、坤より艮に赴くに似たり。須臾にして炸裂し、炉を打ち破るが如し。火、空中に散じおわんぬ。若しくは是大流星か。警奇す。 大夫忠信、青侍等と相共にこれを見る〉
定家は福原遷都後も京都に残り、戦乱の谷間にあって夜の散歩を楽しんでいる。
〈歩み従容として〉などというところは〈紅旗征戎わがことにあらず〉と同じ気持の表現だろう。ところがそうは言っているものの心の中は甚だ穏やかではなかった。その後の〈天中光る物あり〉以下はこの時点における公卿社会の不安と恐怖を端的に表しており、やはり言葉とは裏腹に内心は恐怖におののいていたのである。
この治承五年のこととして鴨長明は《方丈記》の中に次のように書いている。この時期の京都の状況を適確に描写した名文なので長いが引用してみよう。
〈築地のつら、道のほとりに飢え死ぬるもののたぐい数しらず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ちて、変わりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬ事多かり。 いわんや河原などには、馬、車の行き交う道だになし。あやしき賎山がつも力つきて、薪さえ乏しくなりゆけば、頼む方なき人は、自ら家をこぼちて市に出て売る。一人が持ち出でたる値、一日が命にも及ばずとぞ。あやしきことは、薪の中に赤き丹つき、箔など所々見ゆる木、あいまじりけるをたずぬれば、すべきかたなきもの、古寺に至りて仏を盗み堂の物の具を破りとりて、割り砕けるなり。濁悪の世にしも生れあいて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
またいとあわれなることも侍りき。さりがたき妻、おとこもちたるものは、その思いまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故わが身を次にして、人をいたわしく思うあいだに、まれまれ得たる食物をも、かれにゆずるによりてなり。されば親子あるものは、定まれることにて、親ぞ先立ちける。また、母の命つきたるを知らずして、いとけなき子のなお乳をすいつつ臥せるなどもありけり。
仁和寺の隆暁法印と言う人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、その首のみゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ぶわざをなんせられける。人数を知らんとて、四・五両月を数えたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極より西、朱雀より東の、路のほとりなる首、すべて四万二千三百余りなんありける。いわんや、その前後に死ぬるもの多く、また河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加えて言わば、際限もあるべからず。いかに言わんや、七道諸国をや〉
長い引用を試みたが、定家が歌人として歌作を始めたのはこういう時代背景の真っ只中だったのである。普通の感覚ではとても歌など詠んでいられるような世相ではないのだがそこが宮廷社会という密封された閉鎖社会の特質であり、しかもその歌は花鳥風月を文字の上でだけもてあそんでいるいわゆる〈無心の歌〉なのである。このことは定家という人物を理解する上に欠くことのできない重要な契機だと考えられる。
定家は次の年の治承五年(一一八一年)、二十才にして初めて《初学百首》を詠んでいる。これが定家の歌人としての最初の作品となったものだが、上にあげた《方丈記》の記述を読むと、こういう世相の中での定家の行動が何か不思議な気さえして来るのである。 同じ年平家の統領の清盛が没し、平家の衰亡は決定的になりつつあった。
だが定家は更に翌寿永元年(一一八二年)〈堀河院題百首〉を詠み、着々と自己の歌人としての修練を重ねて行った。この時俊成夫婦が定家を将来歌の名手になるだろうと落涙したのは別にしても、従兄の隆信や寂蓮は賞賛し、右大臣兼定までが手紙を送って祝意を表しているのは、そういうものなのかと思っても、やはりわれわれの腑には落ちにくい。 こうして定家の歌人としてのスタートは異常な社会状況に患わされることなく順調に進んだのであった。
寿永四年(一一八三年)平家は源義仲に倶利加羅谷で大敗を喫し、一族郎党みな西海に走ったが、この年定家とは切っても切れない関係となった後鳥羽天皇が即位し、定家自身も正五位下に叙せられた。二十二才であった。
平家は寿永四年(文治元年、一一八五年)屋島に敗北、遂に壇ノ浦において一族滅亡してしまった。定家はと言うと宮中において少将源雅之の嘲弄に怒り、脂燭(しそく)で雅之の顔面を打つという狼藉を働き除籍処分に処せられている。若気の至りとは言え定家の神経質で癇癖の強い性格と、エリート・コースから外れたもののコムプレックスを表す象徴的な事件であった。ところで平家を滅亡させた頼朝は全国に守護・地頭を配置して現地における土地・人民の支配体制を固めだが、次いで院側近の反幕勢力の一掃に乗り出し、高階泰経ら反幕公卿十二人の罷免、関白藤原基通に代る九条兼実の登用、更に兼実・経房ら法皇批判派の十人の議奏公卿の合議制による政務の運用などを法皇に強要してこれを承認させた。この結果兼実は内覧を命ぜられ院側の最高権力者となり、政界を牛耳る立場に立つことになった。
翌文治二年(一一八六年)定家は九条兼実家の家司として出仕しすることになる。まことに良いタイミングであった。俊成は兼実の歌の指南役でもあったから、俊成の奔走、兼実の口添えなどもあったのであろうか、定家は好運にも除籍処分を解かれている。父俊成にしてみればやれやれの思いであったに違いない。
この年西行はすでに七十一才の高齢であったが、東大寺座主であった俊乗房重源の懇請によって伊勢から上京し、東大寺大仏殿再建勧進のため平泉に向ったのであるが、この時西行は定家に面会し、定家は西行の勧めによって〈二見ケ浦百首〉を詠んでいる。西行は俊成の息子である定家の並々ならぬ歌才を認めて定家を激励したのであろう。翌文治三年(一一八七年)西行は奥州への使いの役を果たして帰京し、自作の〈御裳濯河歌合〉に俊成の判を請うている。
文治四年(一一八八年)俊成の撰による勅撰の《千載和歌集》が完成し、奏覧に供された。この集には西行の歌十八首、定家の歌八首が入集した。
翌文治五年(一一八九年)には頼朝の全国統一が完了し、約五百年に亙った律令体制は完全に崩壊した。この年西行は《宮河歌合せ》を作り定家の判を請うている。西行はすでに定家の実力を認め父俊成にではなく定家に判を依頼したのであった。定家も快くこれを引受け判を作って西行に送った。西行はこれを再読・三読して喜んだと言う。この年の十一月定家は左近衛少将に任ぜられた。翌建久元年(一一九○年)西行が河内国弘川寺で生涯を閉じた。七十三才であった。一方定家は従四位下に叙せられた。二十九才であった。 建久二年(一一九一年)には兼実が関白に任ぜられた。御子左家は強力な後盾を持つことになり、定家の歌道における活動はますます活発になって行った。
建久三年(一一九二年)頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府が実質的に成立した。定家はなぜかこの頃から写経を始めており、写経への熱は徐々に深まって行く。これはもちろん定家の心に仏教思想が浸透して行ったことを物語っているが、それがなぜであるかははっきりわからない。唯定家が仕えていた兼実の浄土宗への傾倒の影響でないことは確かである。(この点については後に述べる)
建久四年(一一九三年)良経第の〈六百番歌合せ〉に定家も出詠した。この歌合せは歴史に残る盛儀で、この時点ではすでに定家の宮廷歌人としての地位は確立していたと言っていいだろう。藤原良経は兼実の子で後に摂政・太政大臣となった人だが、歌人としても書家としても優れ、定家とは親交が深かった。この年定家の母が没し、定家は烈しくむせび泣いた。三十三才の時のことである。
たまゆらの 露も涙もとどまらず 亡き人こうる宿の秋風
この歌は定家には珍しい何のケレン味もない心情を吐露した歌であり、無条件に読むものの心を揺すぶる。定家の悲しみがいかに深かったかが実によくわかる。
建久六年(一一九五年)定家は三十四才で従四位上に叙せられた。このあたりまでの定家の昇進は順調であったが、ここで朝廷内における大異変が生じ定家もその影響をこうむることになる。それは源通親の登場である。
2、京都朝廷内の権力を廻る闘争
建久七年(一一九六年)関白兼実 〈源通親関係系図〉
忠実
は源通親の讒訴により失脚して職を追われ、実権は通親に移り、定家の昇進にも暗い影が落ちることになった。兼実が実権を握っていた期間は約十年で終ってしまった。ここで突如登場してきた源通親という人物に・忠実ついて見てみよう。この源の通親という人間は何とも凄まじい男であって、宮廷的寝業の名手と言うか、その道を極めた男とでも評すべきであろう。通親は村上天皇八代の後裔で、平家一門の勃興をみるといち早く初めの妻を捨て清盛の姪を娶り、その庇護のもとに政界に進出したと言う人間である。平家全盛中はその忠実な追従者であったが、一度平家一族の西走に出会うやたちまちこれを捨てて後白河法皇派に走った。そして二度目の妻を捨て、後白河の近臣の出で後鳥羽天皇の乳母を勤め、平家に従って都落ちした夫と離別して都に止まっていた高倉範子を妻に迎え、以後は法皇の近臣として活躍する。
治承四年(一一八○年)以仁王の挙兵が失敗に終り、関白頼長が宇治に敗死した後、寿永二年(一一八三年)木曽義仲が京都に乱入し、後白河法皇を押し込めるという事件が起った。この時義仲は関白基通を罷免し、松殿基房の子、師家を関白に据えた。これは義仲が基房の娘伊子が美人の聞こえ高いのを知り無理矢理に自分の妻にしてしまったのであるが、これは関白忠通の子でありながら冷飯を食わされていた松殿基房が義仲に取入るため美人の娘伊子を積極的に差し出したものであったかもしれない。
しかしながら義仲はわずか二ヵ月で範頼・義経に追われて京都から逃亡し近江の粟津で敗死してしまう。そこで師家はたちまち関白の職を解かれ基通が復職する。だがそれも束の間、文治二年(一一八六年)には先に述べた頼朝の宮廷反幕勢力一掃の要求で基通は職を解かれ基房とは兄弟にあたる兼実が内覧を命ぜられる。通親は兼実が頼朝に近付き親幕派になってゆく過程で自分は後白河法皇の近臣となり、法皇の寵姫丹後局に近付き、これを自分の妾として宮廷権力に近付いて行く。更に自分の妻範子の連れ子である在子を後鳥羽院の後宮に入れ、在子に皇子を誕生させる。通親は義仲に死なれた基房の娘伊子をも妾にする。これは基房が新しい権力者通親に近付こうとして政略的に美人の娘を差し出したものか、通親の方が積極的に伊子を求めたものかわからないが、おそらくその両方であったろう。こうして不幸な女伊子は通親の妾となり一子を生む。これが後の道元である。したがって道元の出生は初めから暗い彩りに隈どられていたと言う他はない。通親はこうして着々と権力の中心部へ楔を打ち込み、時間をかけて準備を整え、虎視眈眈と時期の到来を待ち続けていた。
ここで通親はもう一つの手を打った。頼朝と兼実の離間である。通親はじっとチャンスが来るのを狙っていた。チャンスは向うからやってきた。大姫事件である。大姫は頼朝の娘であった。頼朝は初め大姫を義仲の長男義高に嫁がせたが、義仲との間が不和になると義高を殺してしまった。そこで頼朝はこの不幸な娘をなんとかしてやりたい強い願望を持つに至った。冷徹無比のように見られていた頼朝ではあったが彼もまた人の子であった。 娘への愛のために彼は自分を見失い政治的見通しまでも失った。彼は大姫を後鳥羽院の後宮に入れようと考え、通親や丹後の局に近付いて猛烈な運動を開始した。
建久六年(一一九五年)には東大寺落慶供養を兼ねてわざわざ京都まで出向き、天皇や法皇に拝謁し通親や丹後の局に莫大な贈り物をするという、あれほど京都朝廷を警戒し、勝手に朝廷に近付いた弟の義経を徹底的に追求して破滅させた頼朝にはとても考えられないような行為にのめり込んで行ったのである。頼朝はここで親幕派の兼実らを捨て、反幕派の通親らと結ぼうとしたのだ。この選択は頼朝が娘を後宮に入れることによって天皇・法皇の外戚になろうという政策を取ろうとしたのだという見方もできないことはない。しかし、それは鎌倉幕府設立の基本方針に真っ向から対立する考え方であり、どう考えても頼朝の一貫した政治姿勢からして納得できるものではない。これはやはり人の親である頼朝の一生に一度の迷いだったと見た方が良さそうである。だがその間違った選択は親幕派を潰し反幕派に道を開いて、後の承久乱のための条件を自ら作り出す結果となったのである。一人の専制者の謝った政治的選択が社会にどんな大きな影響をもたらすかを示す好例であろう。そしてこの問題は突然の大姫の病死によって言うも愚かなあっけない幕切れとなったのである。頼朝にとっては笑うに笑えない大失態であった。
翌建久九年(一一九八年)後鳥羽天皇が退位し上皇となると、在子の生んだ皇子が即位して土御門天皇となった。こうして通親は遂に天皇の外戚となり彼の策謀は百%完結したのである。しかもその翌年の正治元年(一一九九年)頼朝は没してしまった。通親が長い間真の敵として知力の限りを尽くして対抗して来た源家の棟梁は、彼が宮廷側の最高権力者となった時点で倒れたのである。しかし通親の権力も長続きはしなかった。それから三年後の建仁二年(一二○○年)さすがの策謀家通親も病に没した。通親が権力の座にあったのはわずか六年間に過ぎなかった。こういう事実を見ると権力への執着というものは一体何であるのかという疑問を突き当たらざるを得ない。通親が権力の頂点に立ったと思ったのも李下一睡の夢に過ぎないという感想は筆者一人の感傷であろうか。長々と通親について述べて来たが、それは定家が宮廷歌人としてもっとも力を発揮したのがこの通親の関白時代とそれに続く時期であったからである。そしてこの恐るべきマキュアベリストの下にあった定家の行動は、本来彼が持っていたものから来るのかこの通親の影響によるものか、それにしてもこの二人の行動には同じ匂いを感ずる場合が屡々あるのである。そういうことも含めてその後の定家の人生を追ってみよう。
3、定家と後鳥羽院政
建久九年(一一九八年)後鳥羽院政が始まった。この後鳥羽院が歌の道に強烈な関心を持ち、自らも歌人だったため歌壇はさらに活気ずき、《新古今》撰進の道が開けて来る。この年法然の《撰択本願念仏集》があらわれ浄土思想が強く社会に浸透し始める。もちろんこれに対して叡山側からの圧迫も激しくなって行く。この頃の定家は《涅槃経》の書写を行なっているが、これは主人筋の兼実の影響ではなく、定家が心を惹かれていたのは天台止観であったようだ。天台止観とは暝想による観法であって、暝想によって心の活動を止め、浄土の世界を心の中に画きだしその中に身を置く修練を意味し、中国における善導以前の浄土思想である。この観法は方法は《観無量寿経》に詳しく説かれているが、自力救済の傾向が強いものであり、同じ浄土思想でも法然の他力救済の思想とは対立的な考え方となっている。定家においては浄土思想に対する接近の仕方はどちらかと言うと主知主義的であって宗教的ではないように見受けられ、そこにも定家の定家らしさが出ていると言っていと思われる。定家は卑賎な僧侶で既成教壇に対する反逆者である他力救済思想の法然を、兼実が重用して宮中にまで引き入れたことにむしろ終始批判的であり、〈骨鯁の御本性、なお以てかくの如し〉などと《明月記》で批判している。この点でも定家はあくまで保守主義者であった。
正治二年(一二○○年)定家の歌壇における活躍は華々しく、《守覚法親皇撰歌》に六首入集、さらに良経第の歌会には必ず出席し、《院百首》の作者にも加えられ、正四位下に叙せられて内昇殿をも許されている。しかしながら定家はこれほど親密な間柄にある良経に対しても無礼な行為があったらしく、良経の不興を買い自家に蟄居し謹慎したという記事があり、また《院百首》の作者の件につき季経とも対立している。何れにせよ定家の偏狭・狷介な性質があらわれたためであろう。良経に対しては詫びが叶ったらしくその後は前のような交誼を得ているが、どうにも難しい性格であったことは確かなようだ。
翌建仁元年(一二○一年)後鳥羽上皇の命により《新古今和歌集》の撰進が始まり、定家は家隆・良経・寂蓮とともに撰者に任ぜられた。この年上皇の熊野御幸があり定家も扈従しているが病弱だった定家にとってこの長旅は死の苦しみだったらしく、《明月記》に詳しい記事があり、定家はその中で悲鳴を上げている。
建仁二年(一二○二年)関白通親が遂に没すると良経が摂政となり定家の環境もやや好転する。定家は和歌所年始御会に召されており、宮廷歌人としての地位は安定して来る。またこの年左近衛権中将に任ぜられ宮廷内の地位もやや向上した。しかしながら定家の病弱は咳病・痢病・心神不例など頻りに発し、ために〈病をおかして登院す〉とか〈病により出仕せず〉とかいう記事が《明月記》に頻発して来る。殊に後鳥羽上皇の水無瀬御遊には始終召しだされ、雨の中を馬や車で往復し歌を詠むという勤めは相当苦痛だったらしい。《咳病殊に以て悩む。心神ありてなきが如し》とか、《病悩殊に辛苦、冴寒を快くせんがため沐浴。出で行かず》《腹病気あるにより終日たおれ伏す》などという記事が連発する。。
「公卿の生活は優雅なもの」という認識が一般的だが、《明月記》によると定家は連日風雨・寒暑にかかわらず、しかも時をわかたず夜の夜中まで院の御所や上級公卿第に呼び出されて歌を詠まされており、たいへんな重労働をさせられている。下級貴族の生活というものは今の時代に引き直してみると、級サラリーマンのそれと少しも変わらないという感じが強い。殊に秉燭に退下というのは夕暮時の退出だからまあ定時退社のようなものだが、昏黒だとか深更だとか亥終り(ほとんど零時)、時鐘の程(夜明け頃)とか、その残業の物凄いことは今時の猛烈社員も肝をつぶすほどである。しかも暖房も冷房もない馬や車で通勤するのだから、その辛さはむしろ現代よりもよほど苦痛であったに違いない。それに加えて宮廷内は有職故実というやつでがんじがらめになっており、箸の上げ下ろしまで規則や仕来りで縛られているのだ。そういう中で我侭極まりない専制君主の後鳥羽上皇に仕えているのだから、その精神的緊張は想像を絶するものがあったろう。したがって強健なものでもさぞたいへんだったろうと思われるくらいだから、病弱な定家にとって公卿の勤めというものがどんなに苛酷なものであったかは言うも愚かなものがあったであろう。《終日たおれ伏す》というような記事もこういうことを考えるとあながち定家一流のナルシスティックな誇大表現だとは言えないのである。定家という人はある面では非常に糞真面目で、九条家の家司としてもその格勤が讃えられているくらいだから、この宮廷勤めは正に心身を磨り減らすようなものであったに違いない。糞真面目で融通の利かない定家が、気紛れで奔放な後鳥羽上皇に振り回されて泣きべそをかいている図を思い浮かべると何とも気の毒な気がするのである。
ところでこんな定家が八十才という高齢まで生きたのだから不思議と言う他はない。人間の寿命というものは分からないものである。
さて鎌倉幕府では正治元年(一一九九年)頼朝が没し、建仁三年(一二○三年)実朝が将軍に任ぜられたが、この時期は幕府内でも内紛が頻発し京都では通親の策動が続いていた時だから、新しく成立したばかりの武家政権にとっては正に正念場の時代であった。実朝の将軍職就任はこの危機にわずかな安定期をもたらしたのだが、この後も幕府内の内紛は続き、翌元久元年(一二○四年)には頼家が伊豆で殺され、その翌年の元久二年(一二○五年)には北条時政が失脚し、義時が執権となって幕府はようやく本格的安定期に入るのである。
定家の身の回りでは元久元年父俊成が九十一才の高齢で亡っている。この時定家は四十三才、漸く宮廷歌人としての地位が確定して来るのだが、そこでまた定家一流の癖も頭を擡げ、讒訴によって上皇の定家に対する感情にやや白けたものが現れ始める。そして元久二年《新古今》撰進の事業が完成し後鳥羽上皇の奏覧に供され、宮中において竟宴開かれたが、何故か定家はこの竟宴に欠席している。これはまったく想像できない事実であり後鳥羽上皇と定家の間に只ならぬ事態が発生していたことを想像させる。自分が取り立てて《新古今》の撰者にまでしてやっ男が、何に臍を曲げたのかは知らないが、その完成祝の席上にさえ顔を出さないなんて、後鳥羽にとっては大いなる侮辱としか思えなかったであろう。この時後鳥羽がどんな顔をしたか手を取るように見えるではないか。
当時定家は《法華経八巻》を書写しているのであるが、これからすると彼は宮廷歌人としての自分の生き方に疑問を持ち始めていたのかも知れない。この時定家は四十四才であったが官位の昇進はずっと停頓しており、正治二年(一二○○年)正四位下に叙せられるまで十一年間も昇進は途絶えているのである。だからこのあたりの定家の行動は何か自棄的な匂いさえ感じさせるものがある。定家の無念は頭に来ていたのかもしれない。
承元二年(一二○七年)浄土宗に対する叡山の圧迫は益々強まり、遂に朝廷はその圧力に敗けて、法然を土佐に親鸞を越後に流した。法然の評判が高くなり、浄土宗の社会に対する影響が次第に大きくなって叡山はその力に恐怖したためであった。法然の熱烈な支持者であった元関白兼実もこの年に没した。そういう中で一つの事件が起きた。
そもそも定家という人は自信過剰の人物であり、歌については殊にそうだったから、後鳥羽院のような専制君主でしかも自ら歌人としての誇りを持っていた人間が、このような定家とウマが合うはずがなかった。後鳥羽院も定家も強烈な個性の持ち主であったから、その二人が同じ歌の世界でしのぎを削るとなれば、何時か二人が正面衝突することは避けられないことであり、それはこの二人の宿命であったかも知れないのである。後鳥羽院は定家を評して「非常識なまでに傍若無人である」と言っている。(後鳥羽院御口伝)
この年院はじめ十人の歌人が《最勝四天王院名所障子和歌》を詠んだ。
秋とだに 吹きあえぬ風に色かわる 生田の森の露の下草
これは生田の森の絵につけて定家が詠んだ歌であるが、後鳥羽院はこの歌を取らず、慈円の
白露の しばし袖にと思えども 生田の森に秋風ぞ吹く
の方を撰ばれた。自分の歌に絶対の自信を持っていた定家はこの選択にはきわめて不満で、院の鑑賞眼を嘲る言辞をあちこちで洩らしたらしい。《明月記》にも院の態度を誹って《掌を返すが如し。万事かくの如し》と忿懣をぶちまけている。ところが讒奏するものがあってこのことが院の耳に入り、院はたいへん不快に思われて〈おのれが放逸を知らず〉ときめつけ、〈偏執〉であると評したという。どちらの歌が良いかは問題ではあるが、定家の歌は言葉だけは優雅だが慈円のような率直な感情が出ていない点を、院は判断の基準とされたのであろう。確かに定家の歌というものは後に詳しく述べるように、言葉の彫啄と構成には優れているが、そのことのために最も大切な歌の感情がはぐらかされている場合が多いのである。そういう行き方が後鳥羽院にとっては定家の才能を認めるのにやぶさかではないにしても、何か傲慢に感じられるたかも知れない。ここで定家と後鳥羽院は完全に感情のしこりを残してしまい、後に決定的な衝突にまで突き進んでしまうのである。
承元三年(一二○九年)定家は実朝のために歌論書《近代秀歌》を書いて贈っている。これは実朝の請に応じたもので先ず貫之以来の歌風を昔・近代・現代の三つの時期に分けて説き、次いで作歌の心得として〈言葉は古きを慕い、心は新しきを求め〉、古今和歌集以前にならえと説いている。また本歌取りの手法についても注意を述べている。この中で定家は「貫之はあらゆる点ですぐれていたが、近代に至り歌は拙劣となり、優れているのは経信、俊頼、顕輔、清輔、俊成と、その師の基俊の六人だけだと言っている。したがって定家は西行の歌はあまり高く評価してはいなかったようだ。
承元四年(一二○一年)土御門天皇が譲位し順徳天皇が即位した。この頃から定家は息子為家の昇進にも非常に気を遣うようになり、この年中将を辞し、為家を左権少将に任じ代えてもらっている。われわれの常識からすると一種不可解な感がするが、当時の公卿社会の慣習としてはこういうことが普通に行なわれていたらしい。年末には定家も内蔵頭に任じられている。
建暦元年(一二一一年)定家は従三位に叙せられ侍従に任ぜられた。卿二位と言われた藤原兼子に猛運動した結果であり、定家にとっては先に述べた通り十一年ぶりの昇進であった。可笑しいのはこの十一月定家は輿から落ちて気絶しているのだが、同じ月に息子の為家も内裏からの帰り輿から落ちやはり気絶しているのである。親子が同じ月に符節を合わせたように同じ事故に遭っているのはもちろん偶然のことだろうが何とも滑稽である。いかに定家親子が柔弱な質であったかがわかる。もっとも為家の方は蹴鞠の名手であったと言うから運動神経は発達していたはずで、輿という乗り物が安定性の悪い危険な乗り物だったせいかもしれない。為家はこの後も馬から落ちて悶絶して家へ担ぎ込まれるという事件を起こしているから、この男は余程粗忽者であったのだろう。
建暦二年(一二一二年)法然が没した。しかし永平寺の確立により浄土宗の基礎は固まっていた。この年鴨長明の《方丈記》があらわれ、また明恵上人の法然に対する反論の書《摧邪輪》も世に出た、。定家は宮廷歌人として比較的平穏無事な日々を過ごしているがその様子を見てみよう。
建暦二年(一二一二年)定家五十一才
一月 有馬湯治
二月 二日・邸の柳三本を院に献上
一七日・奉幣使として川合社・貴船社に参向
二二日・日吉社に参詣
二六日・鬼気祭を修す
四月 一日・物忌み
二九日・仏師に愛染明王を造らせる 日吉社参篭(五月二日まで九日間)
五月一一日・内裏にて詩・歌合せ出席
一四日・道家第にての歌合せに出席
七月一三日・院の命で七条殿に三首詠進
二三日・道家第にて詩・歌合せ出席
二六日・鳥羽堤の修理の課役免除を上奏聴許
八月三日・内裏和歌御会出席
一七日・ 愛染明王像出来 作料に夏直衣を与う
二二日・歯痛、老 に歯を抜かせる 忠弘吉富荘に下向
二四日・愛染明王開眼供養
九月一三日・内裏詩・歌会二首
二四日・日吉社参詣
二五日・内裏より十一首召さる
十月 六日・吉富荘で傀儡師忠下人と闘争して上洛訴訟す
二四日・女子民部卿を五節に出仕するよう命ぜらる
一一月五日・為家大嘗悠紀国権介に命ぜらる
一二月二日・後鳥羽院より二十首召さる
一八日・院有心無心連歌会出席
二五日・院馬場殿連歌会出席
二八日・院連歌会
《明月記》の建暦二年(一二一二年)の分から目ぼしい記事を拾ったのが上の表であるが、ここから定家の生活のいろいろな面が窺えて面白い。
第一は定家の宮廷歌人としての活動である。内裏・院の歌会出席が五回、道家第歌合せ出席二回、内裏・院から歌を召されること五回とこの関係の記事が一番多く、定家の歌壇における地位が高いことがよくわかる。その他奉幣使として川合社・貴船社へ参向するとか、院に邸の柳を献上するとか、後鳥羽院との間に感情的確執はあったにせよ、それはまだ定家の宮廷歌人としての地位を危うくするところまでは行っていない。
第二は定家が仏師に愛染明王の像を造らせ自宅に安置していることだ。愛染明王とは大日如来を本地とする明王で、外相は憤怒の暴悪形であるが、内証は敬愛を以て衆生を解脱させるの意で、三目六臂・種々の兵器を捧げている。しかし一般には息災・得福の明王として信仰されたもので、定家の場合ももちろんそれをを願って自宅に安置したものであろう。定家の神仏信仰にはこういう実利を目的としたところがあったことは確かである。
第三は日吉社参詣に三回出掛け、その内一回は九日間も参篭していることである。この参篭は前年の従三位に昇進したことのお礼参り的なものであったと思われる。と言うのは建仁二年(一二○二年)に左近衛中将に任ぜられた時にも、前年の十二月六日から十二日まで七日間、寒中を押して祈願の参篭をしているからである。したがって定家の仏教観は観念的には天台止観であったかもしれないが、実際的にはまことにはっきりした現世利益希求型であり、彼の浄土宗批判はあまり論理的なものではなく、法然が叡山を捨てた私度僧であったことに対する、彼のエリート意識からの嫌悪という感情的な反発に過ぎなかったものと見られる。
定家が観念と生活感情や実利との間で分裂し、矛盾撞着を侵しながら当人はまったく気づいていないところが面白い。これはエリート階級の意識の特性であるが、同時に定家のナルシスト的性格も強く働いていたものと思われる。
第四は鬼気祭をするとか物忌み、方違いなど迷信に基づいた行動が多いことである。これはもちろん定家一人のことではなく、当時の宮廷社会一般がそうであったことによるものであるが、宮廷社会などというものは一切の行事・行動がこういう陰陽道によってがんじからめに規制されていたのである。
第五は八月に老婢に命じて歯を抜かせていることである。これはその後も二度ほど記事としてあらわれる。当時は歯科医学などなかったであろうから、痛みに耐えかねれば抜歯する他はなかったのであろう。これは一般庶民も天皇を頂点とする公卿たちでもまったく同じであったのだ。
以上を振り返ってみて気が付くことは、公卿の生活が意外に忙しく、楽しみらしいものがまことに少ないことである。一月に有馬湯治というのがあるが、これとて一月という寒中でもあり、とても遊山というようなものではなさそうである。病弱の定家が止むを得ず湯治のため出掛けたものであろう。先にも書いたように宮廷歌人の生活というものは普通に考えられているように優雅なだけのものではななく、実はたいへん厳しいものであったと思われるのである。
建保四年(一二一六年)定家は自分の家集《拾遺愚草》をあらわした。五十五才であった。拾遺というのは侍従の唐名で、定家は十四才の時官途を侍従から始め、この当時も再び侍従であったのでこの名を撰んだらしい。この本は上・中・下の三巻に分かれ、その後七十二才まで歌が増補されており、上巻は年代順に百首歌十五、中巻は百二十八首歌一、五十首歌五その他、下巻は四季・賀・恋・雑に部類し、十五首歌以下の作品ならびに贈答歌まで含んでいる。その他に第四巻があるが雑歌と呼ばれ、遊戯的動機から作られたものが多い。四巻全部で三千百二十九首あり、定家の歌の大半を収めている。さすがに専門歌人だけあって歌数が多い。
ところで定家はこの年の正月治部卿に任ぜられ、年末には正三位に叙せられた。これもまた藤原兼子への猛運動が効を奏したもので、これから先は比較的順調に昇進の道を歩んでいる。それにしても彼の昇進への執念の凄まじさは驚嘆するばかりだ。
建保六年(一二一八年)定家は民部卿に任ぜられた。宮廷和歌会においても講師をつとめており、後鳥羽院との関係もまずまずに推移している。(講師というのは歌合せで両軍の歌の勝ち負けを判定するレフェリーのことであり、歌合せでは最も重要な役割である)
この頃鎌倉においては実朝は次第に名目的な将軍職に飽き絶望的になりつつあった。彼は将軍ではあったが政治的な実権はすべて母の政子乃至は北条氏の手にあり、彼の任務は祭祀権にのみ限定されていた。しかも祭祀権を持つ鎌倉幕府の象徴としての将軍の役割はすでに風化しつつあり、武家政権にとって必要不可欠なものではなくなりつつあった。しかも実朝の周りにはおびただしい死が堆積しつつあった。鎌倉の武家政権という怪物は、その権力が安定するまでの途上で、その時々の邪魔者を遮二無二抹殺して前進して来た。大姫の夫だった義仲の子の義高、功臣梶原景時、畠山重忠父子、頼朝の弟で戦功第一だった義経、これも同じ弟の阿野全成とその子、頼朝・頼家の乳母の実家で源家を後から支え続けて来た比企一族、挙兵以来の頼朝の後盾だった北条時政、幕府創立当時の侍所長官だった和田義盛一族、そして兄頼家。これらの実朝を取り巻くあまりにも多くの人々が歴史の大きな歯車に押し潰され殺害されて行った。こういう状況の中で実朝が自分の死を予感しなかったはずがない。事実彼は自分の存在が鎌倉幕府にとって不必要になりつつあることを知っていたと理解するのはそれほど不自然なことではない。
その理由の第一は実朝の途方もない「大船渡宋計画」である。彼は東大寺の大仏を鋳造した陳那卿の勧めに従って渡宋を夢み、遂にそれを実行しようとする。これはまことに不可解な行動で、なにしろ現職の将軍が政権を放り出して生命の危険を賭け渡宋しようというのである。これはどう考えても自暴自棄の行為であり、例え船が出来上がっても実朝の渡宋を北条一門が黙って見ているはずがない。だからこの計画は初めから狂気の沙汰としか言いようがないのだが、実朝は実際に由比ケ浜で陳那卿に大船を建造させたのである。この船は翌年完成を見るが遠浅の由比浜では陳那卿がどんなに奮闘しても進水させることができず、浜に残骸をさらすことになり失敗してしまう。陳那卿は何時の間にか逃亡していた。こんな間抜けな話はない。しかし実朝はこの計画に必死に取りついていたのだ。実朝がどれくらい追い込まれていたかを示す好例であろう。振り返ってみると、実朝が歌作に熱中したのも現実社会からの逃避の手段であった可能性は濃厚である。
箱根路を わがこえくれは伊豆の海の 沖の小島に波の寄る見ゆ
これは人口に膾炙した歌で正岡子規によって万葉ぶり、丈夫ぶりと絶賛されたものである。しかし実朝が生きていた苛烈な環境の中で素直にこの歌を読んでみると、どうやっても子規のような解釈にはなりようがない。箱根権現と伊豆の走り湯権現は二所権現と言って、鎌倉幕府の将軍の公式参拝の対象った。実朝が伊豆の走り湯権現に参詣しての帰り、熱海側から登って来て十国峠の上に立つと、広々とした伊豆の海がまぶしく陽光にきらめいている。その沖の一点に小さな岩礁があり白波が打ち寄せて今にも海の中に没しそうな危なさである。それはまるで今の自分の存在そのもののように実朝には見えたのだ。一旦天候が変わって海が騒ぎだしたら、あん小さな岩礁は一瞬に黒い波の下に消沈んでしまうだろう、実朝はそう思ったに違いない。画かれている風景があまりにも明るいので騙されがちだが、周りが明るくきらきらしいことが却って、実朝の孤独の深さを際立たせているではないか。このように読むことはこの上もなく素直な読み方で、実朝が置かれていた政治的環境と彼の家集の《金槐和歌集》の中のたくさんの歌との関連で考えると、これ以外の読み方はどうしても出て来ないのである。実朝の孤独はその極限に近付いていたのだ。(この点については、《実朝研究》と小説《おれと実朝》に詳しく述べてある)
渡宋に失敗した実朝は今度は官位の昇進に熱を燃やし、京都に要請して内大臣、右大臣へと急激な昇進を獲得する。大江広元が強く諌めたが実朝は耳を貸さなかったようだ。
和歌―渡宋―官位と実朝の執念の移動して行くさまを見ると、彼の絶望が深まって行く様子が手に取るように見えるではないか。そしてその翌年承久元年(一二一九年)実朝は頼家の次男で彼の甥に当たる公暁に暗殺されてその生涯を閉じたのであった。
ところで歌を通じてあれほど交流のあった実朝の死に対して、定家は何の反応も示しておらず《明月記》の記事にも何も現われない。この辺りに《紅旗征戎わがことにあらず》という宮廷歌人としての定家の独特の姿勢が窺えるようである。
承久元年(一二一九年)定家は《毎月抄》という歌論書を書いた。この《毎月抄》は定家の歌論の中心をなすもので、実朝に贈った《近代秀歌》の記述が極めて簡単なのに比べると、その構成から言っても分量から言っても内容から言っても堂々たる著作である。この書は衣笠内大臣(家良)に贈ったものという説もあるが確定的ではない。只形式は確かに誰か特定の人への手紙の形式でできているので、誰か親しい人へ贈る目的で書かれたものであることは間違いなかろう。
承久二年(一二二○年)この年宮廷歌人としての定家にとって大事件が持ち上がった。内裏での歌合せの席上定家が詠進した二首のうちの一首が後鳥羽院の逆鱗にふれ、定家は勅勘を蒙って閉門謹慎の身となってしまったのである。
道のべの 野原の柳したもえぬ あわれなげきのけぶりくらべに
〈したもえ〉という言葉には草などが芽吹くという意味と、心の中で烈しくこがれるという二重の意味がある。そこで定家は自らの官位昇進についての不満をこの歌に託し、自分の心の中の狂おしい思いもしたもえでいぶるばかりで耐え切れないと訴えたのである。この歌は与えられた題〈野外柳〉にかこつけてあまりにも不躾に院に対する恨み言を述べているのだが、これが院の定家にたいして長年にわたって蓄積されて来た対立感情を爆発させることになったのであろう。これについては《順徳院御記》(承久三、二、二十一条)に次の記述がある。
〈今夜定家卿、之を召さず 去年詠ずる所の御歌禁有り、今に歌においては召すべからざるの由仰せあり、よって是を召さず、あわれなげきの煙くらべにとよみたりしこと也 数輩に超越せらる、此の如きか、歌道に於ては彼の卿召さず、尤も勝手なり〉
〈尤も勝手なり〉というのはたいへん困ったことだという意味だろうから、この《順徳院御記》の筆者も定家に好意を持っていないわけで、定家独特の人格を好まなかった人もかなりいたであろうことが察っせられる。こうして定家は宮廷から追放され公的な和歌活動を封じられることになった。このことは二つの強烈な個性が並び立ちにくいこと、殊にその一方が専制的権力者である場合はそれが決定的であることを示すものであろう。後鳥羽院の定家に対する憎しみは院が隠岐へ流罪になりそこで崩御されるまで消えることはなく、勅勘は遂に解かれなかったのである。
繰り返し言うが政治的権力者とその庇護下にある文化的権威者の対立には、ある必然的なもの、宿命的なものがあり、それは秀吉と利休の関係にもっともよく現われているが、この後鳥羽院と定家との場合はそれに酷似していると言えよう。
ところで定家のこの失脚に対して同情者もいることはいた。なぜなら歌においてこのような官位についての不満を洩らすことは別に定家だけの特異な話ではなく、一般によく行なわれていたものであり、却って歌によってその立場を哀れに思われ、同情される場合も多々あったからである。そこでこの事件の半年後には土御門院は内々で定家の歌を詠進させているし、後鳥羽院が流罪になった後はまたもとのごとく内裏の歌会にも出席できるようになっているのである。土御門院は承久の乱にも関係を持たず、後鳥羽院や順徳上皇とは行動を別にしていたから、定家に対する後鳥羽院の勅勘事件に対しても別個の見解をもっていたのかもしれない。
承久三年(一二二一年)この年後鳥羽上皇の倒幕計画が事前に洩れ承久の乱が起った。上皇方は義時追討の院宣に対して諸国の武士が無条件に上皇方に投じ、鎌倉幕府に向って進撃するものと楽観していた。このあたりの上皇を中心とする公卿たちの情勢判断の楽天性は時代の変化にまったく無感覚なところから来ており、あくまで朝廷の権威の絶対性を信じているだけのことだったから、まったく現実離れしていたのも仕方がない。これに対して幕府側もまだ自分の力に関して十分な自負を持つに至っていなかったから、義時追討の院宣は極めて強い精神的圧力になっていたことは確かで、尼将軍政子の叱咤によって悲壮な決意で京都進撃を開始したのであった。しかし既に時代は移り、空洞化した朝廷の権威は鎌倉幕府の実力の前にはひとたまりもなかった。
かくて上皇方の軍勢はあっと言う間に幕府方に蹴ちらかされ、勝負はあっけなくついてしまった。自らの力を自覚した幕府の戦後処理はまことに迅速且つ峻厳を極め、院側についた武士や公卿は多く斬られ、後鳥羽院は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ流罪、土御門天皇はこの乱には加担していなかったが、自ら進んで土佐へ流された。定家はもちろん承久の乱には無関係であったが、乱後関白になったのは親幕派だった西園寺公経であり、定家は建久五年(一一九四年)妻を離別して新たに西園寺実宗の娘を娶っていたから、権力者の一族との縁戚関係は定家にとって環境好転として働いたものと見え、乱後は以前より社会的にも経済的にもまた精神的にもはるかに安定して行ったことは確かである。
4、定家の老後
貞応元年(一二二二年)定家六十一才である。歌人としての活動は順調で関白家の歌合せでは判者に召されて活躍しており、同じ年の八月には参議を辞し従二位に叙せられている。ところで西園寺公経と藤原兼実の子良経はともに藤原能保の娘を娶り、良経の子道家と公経の娘との間に生れた頼経は、実朝亡き後をうけ鎌倉幕府の要請により鎌倉に降って将軍となった。定家は兼実が関白時代九条家の家司として勤め評判も高く、良経とはじっこんの間柄であったから、この関係も定家にとって大いに優利に働いたに違いない。
ところで公経は豪奢に傾き北山に別業を営んだ。嘉禄五年(一二二ご年)定家父子はこの別業に招かれて見物し《明月記》に〈毎物珍重、四十五尺の瀑布、滝碧、瑠璃、池水、また泉石の清澄、実に比類なし〉と賛嘆している。この四月には公経は桟敷で加茂祭なども見物しており、六月には公経から氷を贈られたり、公経と定家の間には好関係が結ばれ定家もこれを良しとしていたようである。しかし定家の権力者に対する反抗精神はなお健在で、〈生を濁世にうけ、過差の時儀に交わるといえども、その前鋒の所作、貧老の好まざるところなり。殊なる なきを以て足るべき哉〉と批判している。これはこんなひどい時代に自分一人だけこんな贅沢なことをやっている公経のやっていることはおれは好きじゃないということだろう。
この俊兼実の弟で定家とも歌を通じて親しかった慈円が没した。慈円は天台座主をつとめ、歌人としても名高く、その著書《愚管抄》は当時の評論として有名である。
さて定家は年末に公経の供をして雪の北山に見物に行っており、子の為家も蔵人頭に任ぜられて、定家の身辺は好環境がつづいている。だがこの年は冬から春にかけて疫病が流行し死者は道路に満ちた。その翌年も干天続きで冬にもかかわらず蝿が群をなしてまるで夏のような異変が起きた。
安貞元年(一二二七年)定家六十六才。この年は京都では加茂川が氾濫し四条・五条の橋が流失、加茂社では神主の館が流失して妻子所従みな行方不明となり、六波羅の西門は水のため倒壊し、貴船社では拝殿流失という始末であった。そういう状況の中で定家は北条時政の後家の牧の方や為家の妻らと天王寺、七大寺、長谷などに参詣し、さらに三月には牧の方が定家を訪ねている。政治にはまったく関係を持たなかった定家が牧の方のような政治マダムとどういう交渉を持ったのかはわからない。ことによると牧の方の方から権力者に近い定家に何か依頼事項があったのかもしれない。定家は確かにその位は権力者に近い位置にあり、官位も従二位という高官になっていたのである。
定家はこの年の二月に二度、三月に一度自邸で連歌会を催し、実氏邸での連歌会にも出席するなど、天災地変の中にあっても生活はほとんど変化していない。(後鳥羽院時代の終り頃からは院は歌に代って連歌に熱中するようになり、歌への情熱は次第に冷めて行くのであるが、これは歌より連歌の方が娯楽性が高く気楽であったからで、この当時連歌の会というものは公卿たちにとっては格好のリクリエーションだったのである)
さてこの十月定家は正二位に叙せられ、父俊成を超えて御子左家としては空前の出世を遂げたのである。ところが定家の官位昇進の執念はこれでもなお終息せずさらに上の官位を求めつづけたのだから恐ろしい。
安貞三年(一二二九年)大風・洪水・飢饉が打ちつづきその災厄を攘うため寛喜元年と改元されたが、自然の脅威は停止するところを知らず、鎌倉ではしきりに地震が起こり、また洪水のため民家が流された。京都でもこの前年以来群盗が横行し、一条西ノ洞院では防備の武士と盗賊がわたり合い、七十人ばかりが大炊御門の辺りで激しい戦闘を演じ、まるで市街戦さながらであったと言う。歌人で《新古今》の撰者であった藤原家隆も盗賊に押し入られ侍一人が負傷している。定家はひどく同情しているが、京都の治安は窮めて悪く、高位の公卿が白昼追剥ぎに身ぐるみ剥がれて裸で逃げ帰ったとか、ある邸で追い払われた盗賊の一団がそのまま退散せず、それではと隣家へ押し入るとか言う事件が頻発しており、定家も《明月記》の中で戦々兢々の言葉を書き残している。しかしそれにもかかわらず定家の生活は一面では優雅なもので、三月為家と毘沙門堂へ観桜に出掛けるとか、同月実氏邸連歌会出席、知家第で和歌連歌会、自邸で和歌連歌会、妻及び女子らが明恵上人から受戒するため栂尾へ行く、日吉社参詣、そして六月自邸にて連歌会、七月自邸文庫掃除及び連歌会、十月明恵上人来訪、十一月道家第において屏風歌撰定など、通常の時代とあまり変化のない生活をしている。
この五月には加茂川が氾濫して大被害が出ているのだが、《明月記》には一行も書かれていない。実に何とも不思議と言う他はなく、公卿の意識というものは現代のわれわれにはとても理解できない。天災地変はなおもつづく。寛喜二年(一二三○年)定家は六十九才。夏、美濃、武蔵、信濃で降雪あり、にわかに気温低下、美濃国の一部では積雪二寸と言われ、七月にはこの現象が全国的に広かった。 まるで冬のようになり、八月には全国大暴風雨、九月には北陸では寒気のため収穫がないという凶報が定家のものに届けられた。稲が枯れるという急使があちこちから公卿にもたらされ、定家の家司の忠弘も四国の被害が甚大だという報告を伝えている。朝廷ではさ災厄除去の祈祷を諸大寺に命じたが、東寺でさえもその費用を欠いて時期を延引する始末であった。定家は家僕を使って北の前栽をすき起こし麦畑とした。〈少分といえども凶年の飢えを支えんがためなり。嘲るなかれ、貧老他に計あらんや〉と述懐している。正二位という高官の定家ですら領国からの運上が止まってはこの有様であった。
十一月に入って季節の異変はますます烈しく、麦が早熟して食用に供され、白河付近の桜が咲き出し、十二月には蟋蟀が鳴き、郭公も啼声を上げ、蜩の声が響くというまるでメチャメチャな様相となった。
関東では執権義時が伊豆・駿河の両国で出挙米を出して窮民の救済にあたり、朝廷でも倹約と庶民救済に努めている。漸く定家の身辺も騒がしくなって来て、所領の越後庄の農民が凶害を訴えて愁訴に押し掛けたりしている。京都の飢民は家を壊して薪にして売り歩き、また集団となって富家を襲い掠奪を行なった。路上では次第に餓死者が増し、東北院内には無数の屍が放置されていた。
寛喜三年(一二三一年)定家はすでに七十才である。定家の家出も近所の路上に放置された屍の腐臭が家内に流れ込む始末で、家人も食料にこと欠き、みな浮腫症にかかった。いわゆる栄養失調によるむくみだ。所領の小阿射賀御厨では餓死者約六十二人を数えた。この中で定家はさすがに歌会を催してはいないが、《伊勢物語》や《大和物語》などいう閑文字の書写に熱を上げており、自邸の梨を貴顕に配ったりしている。だが九月には娘のために土地を買ったりもしており、やはりわれわれとはまったく感覚が違っているような気がする。
貞永元年(一二三二年)定家は七十一才だが、この正月権中納言に任ぜられ、同じ九月勅授帯剣を許された。この時は定家はたいへんな喜びようで、藤原兼子への猛運動や、老体のため妻に身代わりに日吉社へ参篭させたりした結果だから当然のことではあった。これで定家の長い長い官途への執念の戦いはやっと終った。年末にはこんな苦労をしてもらった権中納言を辞し、翌天福元年(一二三三年)には出家して明浄と称した。
これはいったいどうゆうことだろうか。これらの事実を見ると定家一生通じて悶え苦しみながら求めつづけて来たものが何であったのかが、わからなくなってしまうような気かして来る。それはわれわれ現代人には遂にして理解しがたい謎なのかもしれない。
この後定家は宮廷の活動からも解放され親しい人たちとの気軽な交際とか、《千載集》や《拾遺集》などの歌集や、《土佐日記》《伊勢物語》などの文学書の書写をしたり、嵯峨の山荘に閑寂を楽しんだり、悠悠自適の日々を楽しみ、仁治二年(一二四一年)八十才の高齢で逝去した。定家がほんとうに自分自身を取り戻し、人生を楽しんだのは官を辞してから逝去するまでの最後の八年間だけであったかもしれない。しかし残念なことにこの期間の大部分はもはや《明月記》が書かれなくなった嘉禎元年(一二三五年)以降に属するので、定家がどのような心境で人生の終りを迎えたかは知ることができない。
(一九八一年二月十一日)