
16、顧みてのほほえみ
この菊も散りこぼるらん心なりかそけくふるう白きひとひら
この下手な歌はわたしが昭和十八年の十二月に作ったもので、当時折りにふれて感懐を記した一冊のノートから見付けたものである。この頃わたしはまだ群馬県の倉賀野町にいた。わたしの幼い心にあったのは何だったのだろうか。この歌に続いて俳句らしいものも一句並んでいる。
膝をだいて 小さき炭を さがしけり
この歌と俳句を見ていると、わたしの脳裏に当時のわたしの姿がはっきり浮び上って来てちょっと胸が苦しくなる。どうしゃっちょこばってみてもわたしは十六才という年令並みのロマンティックでやや感傷的な少年でしかなかった。観念の上では皇道哲学を丸呑みにし、私心を去って天皇に帰一するということを真剣に考えてはいたが、心の中は寂しさでいっぱいであった。自分で自分をどうしようもなかったのである。この歌と俳句はそのうめき声みたいなものなのである。同じノートの昭和十九年一月のところにも次のような俳句が書き付けてある。
あおぎ見る 寒夜の月の 白きかな
あきらけき 寒月われと ともにあり
木枯らしの 吹きよするらん 星のかず
寂しかったのである。わたしはたまらなく寂しかったのだ。これが戦争末期の昭和十九年一月という時点で作られたものであるという点を考慮に入れて少年の感傷をお許し頂きたい。わたしにはここまでしか許されていなかった。ここが表現の限度であった。これから先の表現は他から禁止されなくてもわたし自身が禁止したであろう。わたし自身の心そのものが何か見えない力でがんじがらめに縛り上げられており、自在に流れだすことなど考えられもしないというのがその頃の状況であったのだ。確かにわたしは自分で自分を縛っていたのだけれど、この時代にはわたしをそうさせる不気味な力が強く働いていたことも見逃すわけにはいかない。かすかに震えていたひとひらの花びらはわたし自身の心であったのだろう。木枯らしに吹きよけられる小さな星のかけらもわたし自身であったに違いない。わたしがこんな拙い作品をお目に掛けたのは、唯当時の少年たちの裸の心の姿を見て頂きたかったからに他ならない。少年たちは空想の翼をばたかせることも、感傷の海に思い切り身を委ねることも許されていなかったのである。少年たちの耳に休む暇もなく押し込まれていたのはこうである。
「祖国の運命は君たち青少年学徒の双肩にかかっている。祖国が君たちの献身を求めること今ほど急な時はない。すべてを擲って祖国の危急にはせ参ぜよ」
耳元で暴力的に鳴り響くこの声は個人の空想や感傷などには一顧をも与えないばかりか、そんなものはとんでもない罪悪だとして厳しく断定していたのである。しかしこういう弁解がましいことは言えば言うほど卑しくなるものだからこの辺でやめよう。
わたしが軍隊の学校への入学を心に描き始めたのは、昭和十八年五月山崎大佐以下のアッツ島守備隊二千六百三十八人が全員玉砕したという報道に接した辺りからだと思う。この報道はわたしに大きなシヨックを与えた。北海道守備隊第二地区隊は山崎保代大佐のもと、霜と靄の立ち篭める寒気厳しい北海の孤島で増援を求めつつ苦しい戦いを続けていたが、陸・海・空からの米軍の猛攻に部隊の大部分が戦死し島の北東部に追いつめられて行った。この時撤収命令が下ったのだが潜水艦による撤退まで持ちこたえることはできなかった。五月二十九日、山崎大佐は遂に決断を下し、部下百五十名と共に敵陣へ突入し全員壮烈な戦死を遂げたのである。
「傷病者は最後の覚悟を決め、非戦闘員たる軍属は各自兵器を取り、共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり。他に策なきにあらざるも、武人としての最後をけがさんことを恐る。英魂共に突撃せん!」
これが大佐の最後の打電であった。
〈アッツ島玉砕の歌〉が作られ、その「山崎大佐指揮を取る」とリフレーンで歌われる最後のフレーズは何とも言えぬ暗い悲壮感に満ちていた。わたしは自分の皇道哲学を実践する時期が刻々迫って来ていることを心の中で感じていた。そういうものを抱いて倉賀野での生活を終り復学した頃から、わたしは具体的な方法を考え始めていた。
すでに多くの級友が陸士・海兵・海機などに自己の運命を賭け、眦を決して学校を去って行った。わたしも何れかの軍の学校を目指して進む以外にないと心は決まっていた。どの学校を選ぶか、陸軍か海軍か・・・。わたしは杉本中佐には傾倒していたけれど陸軍は嫌いであった。相沢事件とか二・二六事件とかを通じて、わたしは陸軍の内部が派閥争いの泥沼と化しており、満州ゴロや右翼と結託し天皇の名をかたって、野蛮で無計画な冒険主義に突っ走っていることを知っていたからである。わたしは天皇の名によって自己の無知と恣意を無理矢理押し付けて来る陸軍の田舎臭さがたまらなく嫌いであった。
わたしの眼から見ると、その点で海軍は政治に介入せず考え方も合理的なように見えた。光の当らないところで黙々と祖国防衛の任を遂行しているという印象を受けていた。海軍の方が軍隊として遥かに真面目で合理主義的であると思っていた。だからわたしは軍の学校へ行くとすれば海軍しかないと考えた。
その頃岩田豊雄の《海軍》という新聞小説が現われた。岩田豊雄とは例の《自由学校》などで有名な獅子文六のことである。
この小説は海軍兵学校生徒の厳しく自律的な生活を画いたもので、当時一世を風靡し歌舞伎座がこれを上演するということさえ起った。朝日新聞連載であっただけに世間に対する影響力は山岡荘八の《軍神杉本中佐》よりも遥かに大きかったと言ってよかったろう。《海軍》は兵学校生徒というものが私心を捨てて天皇に帰一するためにどんなに自己と厳しく対決しているか、一号生徒(最上級生)というものがその点でどんなに素晴らしく、三号生徒(最下級生)がどのように鍛えられ、どのようにして軍人精神を体得して行くかという過程を克明に画いたものであった。わたしは一も二もなく感動しこれだと思った。わたしが魅せられたのは海軍生徒の魂の純粋性であった。美しいと思った。厳しい訓練と厳しい反省、その厳しさが美しさをこの世のものとは思えないほどのものに純化していた。わたしが行くところは海軍の学校しかないと思った。
わたしは父にねだって、歌舞伎座へこの《海軍》を見に連れて行ってもらった。しかし歌舞伎俳優の海軍軍人というものは、やたらに力むばかりで芝居にならずこれはまことに詰まらなかった。むしろ小説のイメージ・ダウンであった。けれどもそんなことでわたしの海軍への志向ははまったく傷つくことはなかった。あんなものを歌舞伎役者にやらせるなんてどだい無理な話だと思っただけだった。わたしは海軍の学校を志願することに決めた。しかしわたしは兵学校を選ばなかった。機関学校も選ばなかった。当時兵学校は大量に戦死した兵科士官を急速に補充する必要上大量の募集を行なっていた。したがって麻布中学でも中ぐらいの成績のものがどんどん兵学校に入校していた。機関学校も同様だった。
わたしは海軍経理学校を選んだ。経理学校は兵学校や機関学校とまったく同じシステムの学校だったが、主計科士官の養成学校だから人数も少なく競争率も高かった。その上眼鏡を掛けていても受検資格があったから、頭が良くても眼のため兵学校や機関学校が受けられな地方の俊秀が集中した。試験は難しかった。わたしはこの点で必ずしも無私ではなかった。妙にプライドが高く鼻持ちならないところがあった。だからクラスでも人気がなく友達も少かった。さまざまなコムプレックスと言うか劣等感の複合がわたしをこういう人間にしていた。わたしは堅苦しい、偏狭な、人をリラックスさせない人間で、一方では孤高を保とうとする傾向が強かった。それが経理学校を選択させたのだったろう。
ところが一つ問題があった。父や母が海軍の学校への受検を喜ばなかったことである。父母はわたしが海軍の学校に入校することにより若い命を戦場に散らす日が早まるのを恐れた。これは人の親として当然の感情であった。
「大学へ入ってから幹部候補生になってもご奉公はできるんだから、早まらないでほしい」
というのが父の意見だった。父はそうすればどんなに早くても軍人になるには四・五年掛かる。その時すでに局面は変わっているのではないかと内心で計算を立てていたに違いない。しかしわたしは父のそういう考え方を、子を持つ親の切ない気持と取る心のゆとりがなかった。むしろこういう国家危急の折りに自分の息子だけを守ろうとするのはたいへんなエゴイズムであり、反国家的な考え方であるというふうにさえ思っていた。
七月サイパンの守備隊が全滅し島の一般市民までが手榴弾で自決したり、断崖から身を投じて悲惨な死を遂げたことが伝えられた。こうなるとわたしの眼は血走っていたに違いない。わたしは一日も早く軍に身を投じたかった。両親の承諾など得ている暇はないとさえ考えた。わたしは両親を半ば脅迫するようにして判をつかせ願書を提出した。
八月の暑い頃、築地の勝鬨橋のたもとにある海軍経理学校で試験が行われた。学科試験を何とか通過して身体検査の時、真っ裸で四つんばいにさせられて肛門を調べられたり、真正面から陰茎の包皮をむかれて検査されたりした時は驚いた。痔と性病の検査だったのだが、なるほどここは軍隊だということを嫌と言うほど思い知らされた。ここへ入ったらもう世間とは一切縁が切れるのだということがはっきり自覚された。総毛立つような思いがわたしを襲った。そしてとうとうわたしは合格通知を手にした。
九月の末グァム・テニアン両島の日本軍が全滅した。いよいよ本土空襲が間近かに予想される事態となり七月から学童の集団疎開が始った。学童たちは地方の寺などに強制的に疎開させられて行った。「予科練の歌」や「同期の桜」が歌われ、「月月火水木金金」などという士気昂揚の歌が流されたが、それらの歌は何処かもの悲しく空疎に響いた。戦局はすでに終末段階に突入していた。中国大陸では厖大な軍隊が中共軍のゲリラ活動によって占領地を分断され、ほとんど分散する点の支配となって釘付けにされていた。
ビルマのインパール作戦は軍司令部の意志不統一のまま強行されたため大敗を喫し、三個師団がビルマ山中を彷徨した末、ほとんど全滅するという悲惨な結果を引き起した。
南太平洋ではサイパン・グァムが落ちたため、フィリピン・沖縄が主戦場と化しつつあり、米軍の本土侵攻が目前に迫りつつあった。
十月一日、わたしは遂に憧れの海軍経理学校へ入校した。その場所は築地ではなく品川の台場であった。今の港区南四丁目で東京水産大学のあるところである。経理学校はわたしたちの入校とともに生徒数が約千名に達したので、今までの施設では収容しきれなくなり新しい校舎を建設してここへ移って来たのだった。
海軍の学校は三年制で、三年生が一号、二年生が二号、新入生が三号と呼ばれた。生徒の身分は准士官の下、下士官の上と定められており、入校した日から士官としての待遇が与えられた。入校式の当日は父兄同伴であった。わたしたちは先ず分隊に分けられ、分隊ごとに各自大きな名札を付けて娑婆の服装での最後の記念撮影をした。それから一号生徒に引率されて生徒館に行き、そこで娑婆の服を脱いで第一種軍装に身を固めた。第一種軍装とは冬の正式軍装で、軍帽、紺サージの短ジャケット型の服、短剣、黒の編上靴というものである。下着は草色に染められた越中ふんどしに本ネルの厚い長袖シャツと袴下であった。ふんどしが草色に染められたのはどういう意味なのか今だにわからないが、これはわたしたち三号からであり、二号生徒は白い晒であった。わたしたちはこの草色のふんどしが嫌で、白いふんどしの二号生徒をひどく羨んだものである。
シャツと袴下は当時世間には絶対にないフランネルの贅沢なもので、身に付けるととても暖かった。紺サージに黒い縁取りをしたボタンの代りにフックになっている短ジャケットの服は、今ではホテルのドア・ボーイのものだが、当時は少年たちの憧れの的であり、つまり最高にカッコいい服であった。わたしは菜っ葉服第一号の汚辱から一挙に抜け出すことになり、胸がふくらんだ。馬子にも衣装とはいうものの、地方の中学生からの入校者も多かったから、どう見てもサマにならない珍妙な海軍生徒が大量にでき上った。
講堂で父兄参加のもとに厳粛な入校式があり、式後分隊ごとに指導教官と父兄を交えた記念撮影が行われた。この時の写真はすべてわたしの手元に残っている。
この写真を見ると父兄の中には背広姿の人も少なくないが、父は例の国民服にゲートルを巻き眼鏡を光らせてこちこちに緊張し胸を張って写っている。女の人は全員和服だが母も縞のお召に立派な名古屋帯を締め、白足袋の爪先をきちんと揃え、眼を見張ったように写っている。母も緊張していたことだろう。父兄も新入生も教官たちですら緊張がはっきり出ており、全員の表情が固い。息子を手放す側、受け取る側、そして入校する生徒たちもそれぞれ思いつめたものがあって、それに対して懸命に耐えていたのだから当然のことであったろう。
それから広い食堂へ導かれると祝いの膳が用意されていて父兄と共に会食が行われた。分隊所属の一号生徒も交じって、親たちと雑談しながらの楽しい食事だった。何が出されたか今では覚えていないが、世間ではとても食べられないようなご馳走であったことは確かである。世間では八月から家庭用の砂糖ですら配給停止になっていた。この昼食会は新入生の両親たちに息子との最後の食事をさせようという学校側の親心であった。両親と一緒の記念撮影といい、学校はこういう点でずいぶん気を使っていた。こうして短時間の祝宴が終ると父兄たちは息子たちが脱ぎ捨てた服を包んだ風呂敷包みを抱いて生徒たちが見送る中を校門から去って行った。わたしたちはこれで本当に軍隊の人間になったのだと知らされた。それは一種の戦慄を伴った興奮であった。
この後わたしたちは同じ分隊に配属された新入生だけで写真を撮ったり、こんどは分隊幹事以下分隊全員で写真を撮ったりした。この場合面白いのは各自が軍帽の天井の部分に白墨で大きく自分の姓を書き胸の前に捧げるように持つのである。これが名札代りで白墨は後で指先でぽんぽん弾くときれいに落ちてしまった。こんなところはまことにスマートでさすが海軍は頭がいいと感心した。
ところで入校当日の学校の父兄に対する気の配りようは大したものであったが、わが子を残して校門から去って行った親たちの気持はどうだったであろうか。わたしの両親も学校側の手厚い心配りと息子の凛凛しい短剣姿に誇らかな思いを抱いたことは確かだろう。が、一方長年手塩に掛けて育て上げた最愛の息子を、国のためとは言えあっと言う間に取り上げられてしまいこれが見納めになるかもしれないと思えば、その辛さはどうにもならない胸のつぶれるような思いであったに違いない。わたしはまじめな人間であったがそのためにこの時の他にこの後何度も両親に死ぬ思いをさせることになった。それを思うとわたしの胸は今でもうずくのである。
わたしは第十三分隊の配属された。分隊は第十八分隊まであった。第十三分隊は分隊幹事吾卿少佐のもと、一号六名、二号十四名、三号三十一名の五十一名で、この構成を見ても生徒数が年々倍々にふくれ上がって行ったことがわかる。わたしたち第三十七期生徒は約五百名であった。分隊には分隊伍長というものがありわが分隊で八幡生徒であった。彼は長身で眼鏡をかけ、その細い眼がいつも怒ったように底光りしていて恐ろしかった。次は下佐生徒で、あまり背の高くないがっちりした体躯の上に人懐っこい童顔がのっかっていた。下佐生徒がにこにこしながら言った。
「最初の一週間はお前たちはお客様だからみんな優しいし二号生徒も親切だが、一週間経ったら遠慮会釈なく鍛えるからその積もりでいろ。それからお前たちは二号生徒を兄だと思って何でも相談するんだ、わかったな」
わたしたちはまだ軍隊というものがまったくわかっていなかったから、つい「ぼくは・・・」とか、「・・・しちゃった」とか、「・・・です」などと言う言葉を使って注意された。食事の時もべちゃぺちゃ喋って、「黙って食べろ」と叱られた。ここでは食事中は喋ることは一切禁止なのであった。
夜三号は寝室に集められた。その前に一号生徒がずらりと並んだ。下佐生徒が腰に手をあてて三号を見回すと、両足を踏張り、腹の底から絞り出すような強く響く声で次の言葉を叫び、わたしたちに唱和させた。
「青年は
意気であり
熱であり
しかして
顧みる時のほほえみである」
この言葉はわたしの気持にぴったり来た。ことに「顧みてのほほえみ」というのが気に入った。毎日毎日を海軍生徒として顧みてのほほえみとなるように生きねばならない。わたしは心からそう思った。